去年の冬、「にぼーと」について書きましたが、ずっと手軽に作れるのは、ご存知、「すいとん」。白い息で帰宅する冬の晩、アツアツのすいとんで、わたしはよくお腹を満たします。祖母はたしか「つめりっこ」とも呼んでおりました。岩手県には、これを「つめり」と呼ぶ地域があるそうで、その余波りが上州にもあったのかもしれません。
子どもの時は、もちろんその祖母が作ってくれていましたが、いま思えば、1970年代の食卓には、まだ戦後の影があったのでしょう。夕飯がそれだと、「ありゃ、すいとんかい…」と父は不満げでした。いわゆる代用食のすいとんと、祖母がこしらえる野菜や卵の入った、具沢山のすいとんは、まったく別物なんですから、その言葉とイメージが疎ましかったのでしょうね、父は…。
手打ちの「にぼーと」ほどワクワクはしなかったけれども、わたしはすいとんも大好きでした。ごつごつした粉の塊まりを、がぶっと齧じり、奥歯で噛みしめると、地粉ならではの粉の味が、むくむく湧いてきます。むしろ、うどんやにぼーと以上の素直さで。そして、葱や人参など、野菜の甘みがたっぷりしみ出した、鰹出しの煮汁は、寒さに強ばっている体をほぐすばかりか、食べ終わる頃には汗まで掻かせてくれる。
だからなのか、祖母は、わたしと二人っきりの晩ご飯になる夕べには、「たぁちゃん、今夜は、すいとんにすべぇや」とよく言ったものです。もちろん嬉しいのですが、じつはちょっと複雑な感情もありました。
大正二年生まれの祖母には、男には丁重に…という感覚があって、親たちが留守でも、兄がいれば、すいとんにならないのです。ご飯を炊き、味噌汁を作り、魚を焼いたり豆腐を炒ったり。それが、わたしだけだと、すいとん。
もちろん、いいことだってある。四人兄弟ですから、ふだんは何でも分け合わないといけないのに、ふうふう、おかわりするすいとんは、一人占めでいい。食べ物ばかりでなく、祖母という存在も。親密で、お腹いっぱいで、この上なくいい心地になってはいるのです。
それでも、心の端っこの、そのまた端っこでは、やっぱりお兄ちゃんの方がかわいいんだろうなぁ…と思ったりする。
あれから、玉手箱を開けたみたいに時が経ちました。すると、ようやく気づきます。「ああ、おばあちゃんにとって、気の置ける相手だったんだ、わたしは」。
誰が一番かわいいかとか何とかとは、全く別の問題。ふうっと、気を抜いていい相手に思ってくれていたんだな…。それこそ、飛びっきり光栄だ。
何かと気苦労の耐えない「大人なるもの」に、いつしかなってしまい、ようやくわかってくることって、じつに多いですけどね。
祖母の感覚がどうやら伝染しちゃったみたいで、いまの所帯でも、夫がいるときは、すいとんは何だか気が引けます。スーパーで買った茹で麺で煮込みうどんを作るより、大叔父からもらった地粉をすいとんにする方が、ずっと美味しいのに、何となくやらない。べつに、いい顔をしたいわけでもなく、ずさんな料理なら、これまで数えきれないほどあるのに…。
もっぱら、一人で食べる時だけ。夫が外食することがわかっている夜、勤め先から電車に揺られながら、「たぁちゃん、今夜は、すいとんにすべぇや」と自分で自分に言っている。声にならないひとり言に、とんとん肩を叩かれて、気持ちと体を、すいっと、ゆるめているのかな?、わたし。
すいとんって、「気の置ける料理」なのかもしれません。
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