北風に頬が冷えると、無性に食べたくなる料理と言えば、「にぼーと」。たぶん、これは「煮ほうとう」の訛りなんだろうと思います。全国的な知名度を獲得している山梨の郷土料理、「ほうとう」とかなり似たものが、群馬県にもあって、私たちの地域では「にぼーと」と呼んでます。場所によっては「おきりっこみ」と言うところもあるみたいです。
幅広な麺を打って、打ち粉が付いたまま、野菜類を煮込んだ汁鍋に放り込む。そこは同んなじ。ただ、山梨のとちょっと違うのは、味付けは味噌仕立てでなく、醤油仕立て。それから、カボチャを入れたものは食べたことがない…。私の家だけでなく、親戚でも何回もよばれたことがあるんですが、なかったなぁ。だから、いま、お店で食べられる「ほうとう」の黄色いスープは、「にぼーと」にはなく、茶色です。葱、人参、ごぼう、里芋、鶏肉…を入れるのは、同じなんだけど。
赤城おろしに吹き飛ばされそうな日、学校から帰って、夕飯の献立が「にぼーと」だと、大喜びだったなぁ。これは、とってもとっても体の温まる料理ですし、私の祖母は「うどん」「そば」、そして「にぼーと」の、なんたって名人なので、味も抜群でしたから(もう97才なので、さすがに料理をしなくなりましたが、元気です)。
いまは太田市に編入されている、沖野村で生まれ育った祖母は、実家が農家で、冬場の夕飯はほとんど毎日、「にぼーと」だったそうです。群馬県の多くの地域では、米よりも小麦の方が土地に合った作物なので、日本ではちょっと珍しい粉食文化圏。だから、自分たちの畑でとれた小麦粉と野菜で、寒さを凌ぐ煮込み料理を、毎晩作っていたのです。
祖母は8人兄弟の長女で、しかも一番上の子どもでした。つぎつぎに生まれてくる弟や妹の子育てと農作業に忙しい母さんを、何とか助けたいと思い、尋常小学校に入ったころから、この「にぼーと」作りを、自らかって出たんだそうです。当時はもちろん、竃に薪をくべなければ、煮炊きできません。麺だって自分で捏ねて、打って、切るわけです。だから、かなりの大仕事だと思うのですが、おそらく身長100センチ余りだったろう、小さな子どもが、毎日やり遂げていた…。「お前がこさえてくれるから、手を汚さずに食べられて嬉しいよ」と、母さんが掛けてくれる言葉が、何よりの励みだったとか。
何というか、この時代までの、さほど裕福でない庶民の子どもって、ある意味、7才で成人してたんじゃないでしょうか。
「7才までは神のうち」という諺がありますけど、そこまで育ったなら、もう「神」、つまり不安定な命の状態は終わって、安定した「人」に仲間入りする、「人」に成る…。兄弟たちも、働く親を手伝う気持ちを持って、できるかぎりの「仕事」をしていたようです。弟たちは、学校から帰ると、ドジョウやウナギ、フナやギキョウなど、堀や川に取りにいっていたそうですが、それは農家の貴重なタンパク源で、遊びも兼ねながら、大事な食料採集をしてたんですネ。
もちろん、力仕事などは大人にかなわないし、人づきあいの機微もなかなか読めないだろうけど、食べるための、つまり、生きていくための基本的な技術は、その頃、もう身に付けてしまったんじゃないのかなぁ。
というわけで、何とも贅沢なことに、巷のうどん屋の職人さんより、はるかに年期を積んだ祖母の「にぼーと」を、思う存分、頬ばって、私は大きくなりました。コッチの心持ちはゲンダイになってますんで、小学生がこれを作るなんて、思い付きもしなかったですけど…。
ただ、粉がみるみる姿を変えていくプロセス――捏ねられて玉になり、伸されて板になり、そして、長い麺にかわる工程は、まったくの魔法に感じられました。たいてい、そばにチョコンと座って、見てました。大好きでした。自分でもやってみたいと、教わったのは、高校に入ってからだと思いますが。
あぁ食べたい…と思いながらも、どうもゆとりがなくて、年に数回だけなのですが、「にぼーと」を思い出して作ります。麺どうしがくっ付いてしまったり、野菜を煮すぎたり、なかなか上手くいかないけれども…。でも、大叔父がいまでも地粉を送ってくれるので、風味はいいんです。上州の粉って、とーても深い味なんですよ。お店で売ってるものとは全然ちがう。粉じたいに、味と香りがあるんです!
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