編集人:新井高子書評


オノレヲ壊シテ 死者ト遭フ朝

―新井高子詩集『タマシイ・ダンス』書評+d-labo主催「詩のタマシイ、日本語のソウル」イベント評

 

(日本語詩集:新井高子 『タマシイ・ダンス』未知谷、2007)
(英訳詩集:詩:新井高子 /翻訳:ジェフリー・アングルス 他『Soul Dance』 ミて・プレス、2008)

 

高野吾朗(佐賀大学医学部准教授・物書き)


日本語詩集『タマシイ・ダンス』表紙と
英訳詩集『Soul Dance』表紙

 もしかすると・・・新井高子という人は、自分の詩のとてつもない奥深さにまだちゃんと気づけていない、あまりにも無垢すぎる詩人なのではあるまいか・・・いや待て、そう即断してしまうのは問題かもしれないぞ、もしかすると、あるいは・・・自分の詩の世界の見えざる深みを、やはり彼女は初めから、奥の奥までちゃんと知り尽くしているに違いないのだ・・・そうだ、そうでないわけがない・・・その“深み”にいまだ気づけていない読者たちに向かって、それもこのような公の場で、自分自身の口からその“深み”をいちいち手取り足取り説明せねばならぬような状況を、彼女は単に忌み嫌っているに過ぎないのだ・・・だからこそ、自分の詩の核心たるその“深み”の中身を安易に暴露したりせぬよう、細心の注意を常に払いつつ、あのようにわれわれの前で、上手に白を切りとおし続けているのだ・・・だがしかし・・・新井さんは本当に、そこまで自分の詩を完全に理解できているような詩人なのだろうか?・・・


イベント・イメージ
(絵:鈴木謙吾)

 今年(2010年)の7月16日(金曜日)、東京・六本木の「d-labo」で開かれた彼女のトークイベント「詩のタマシイ、日本語のソウル」(彼女の詩集『タマシイ・ダンス』の英訳者でもあるジェフリー・アングルスさんとの共演)を静聴しながら、わたしは上記のごとき自問自答を延々と繰り返し続けていた。彼女の詩集のあちこちをあらためて読み返し、目の前で語られる彼女の言葉に何度も聞き入り、共演者のジェフリーさんの応答ぶりをいわば“補助線”としながら、わたしはただひたすらに、「彼女の詩には、作者本人さえ気づけないかもしれないほどの『見えざる深み』が絶対にあるはず」という自分自身の直観の正しさを自己検証し続けていたのである。

 わたしが自分なりに考える彼女の詩の世界の“深み”の正体、それは本当に、「きちんと的を突いている」と胸を張って公言できるほどの代物なのであろうか・・・もし仮に、それが正しく的を突いているものだとしたなら、なぜ“作者”たる彼女自身の口から、それに関する発言がいっこうに姿を現さないのだろうか・・・わたしの読み方が、やはりあまりにも的外れであるからだろうか・・・およそ二時間のイベントが、まるであっという間の出来事のように感じられるほど、わたしの心はこの果てしなき問いの循環に没頭していたのである。

 彼女の詩を読んで誰もが気づくこと、それは彼女の言葉遊びの自由度の高さ、そして、その荒唐無稽ぶりが自動的に生み出している、まるで“踊る”かのごとき感覚である。例えば「サプリ」という詩では、いろんなサプリメントの名前が即興的に次々と飛び出してくるわけだが、読み手の頭はそれに合わせて、おそらくくるくるとわけもなく回りだすことであろう。これと似たような感覚に読み手を誘うのは、人を化かす狐について語っていながらも、それと同時に、その詩の各行がすかさず「音声的には似て聞こえるものの、意味的には全く異なる別の文章」へと次々にすりかわっていく、自称「行化け詩」というジャンルの特異な作品群であろう。
 バリエーション豊かな語彙にしっかりと支えられた、時に軽やか、時に霊的な呪文のごとき独特の音楽性は、ジェフリーさんの手による英訳版にもきちんと継承されているらしく、今年1月の『ジャパン・タイムズ』に掲載されたこの英訳版の書評も、まずはこの点から賞賛一色の文章をスタートさせている。「セクシャルで、陽気で、いたずら好きな」リズム・・・「可笑しくて、エロティックで、そして力強い」韻律・・・どうやらこの書評の執筆者には、かくのごとき読後感がかなり鮮明に残ったようである。
 初めて『タマシイ・ダンス』に触れた時、わたし自身もこれと全く似たような感覚を覚えた。新井さんの言語遊戯の圧倒的な放埓ぶりに、嫉妬心さえ催したほどである。しかし、詩集のページをめくり続けていくうちに、わたしの心の中には、それとは少し異なる感覚が新たに芽生えはじめてきた。新井さんは・・・そうだ、間違いなく彼女は、「日常言語をとことんぶっ壊したがっている」、そう思えてきたのである。決まり文句ばかりが横行する通常の日本語世界の枠組みの真っ只中で、新井さんは内乱めいたものを起こそうと企んでいるのではなかろうか。それも、“詩”という武器たった一つで。
 『タマシイ・ダンス』には、そんな作品が実は目白押しだ。例えば「シンブンカミサマ」。この短めの詩に登場する「カミサマ」は、昨今の戦争報道にすっかり欠かせなくなった「派兵」「多国籍軍」「大量破壊兵器」「9条」といった日本語たちのあまりの空疎さに、どうしようもないほどの怒りを顕わにしている。その「カミサマ」にもっともっと怒りを吐露してもらおうよ、とけしかけるところでこの詩は終わる。われわれ日本人が今なお無邪気に使い続けている「消化不良ナ コトバ」(「シンブンカミサマ」の中の一節)そのものに対する、一種の宣戦布告のごとき詩ともいえよう。
 同じ意味でとても重要に思われるのが、「花粉症」という作品だ。上記の宣戦布告の心意気を、まさにそのまま文学的に実践したかのごとき詩である。この詩の中でまさに圧巻と思われる箇所は、花粉が空中を漂っていくという単純な事実を、なんと数十行にもわたって描写している後半の連であろう。「飛びます」「放ちます」という二語が機関銃のごとく連呼されていく中、「飛」「放」「び」「ち」「ま」「す」の六文字が、なぜか突然、横向き(あるいは逆さま、あるいは裏向き)に印刷されはじめるのである。もちろん、これは印刷ミスなどではなく、完全に意図的な処置である。ここでわれわれ読者は、文字一つ一つが日常的に担っているはずの表意上の役割が見事にはぎとられる瞬間、そして、いつもの文字が新種の生きもののごとく(あるいは、まるで花粉そのもののごとく)眼前に立ち現れてくる奇妙な現場を目撃することになるのである。

 イベント中、新井さんは、自分がもともと「現実を丹念に写実する」タイプの詩人であったことを素直に告白した。ところが今では、言葉をあえて空回りさせたり、わざと遊ばせたりすることに夢中なのだという。そのおかげか、自分でも驚くほど「変なことば」がどんどんと出てくるようになり、それに乗じて、自分自身がふいにサプリになったり、急に他人になりすましたりできるようにもなっていったのだという。
 この告白を会場の隅っこで黙って聞きながら、わたしは心の中で反芻するかのごとく、彼女に向かってこう呼びかけていた。新井さん、あなたの詩の世界の真の持ち味は、自分以外のものへと変身していくその軽やかさにあるというよりは、むしろ「新井高子」という人間そのものを自らの言葉でぶっ壊そうとするその“暴力性”にこそあるのではないでしょうか・・・あの「サプリ」という詩の核心は、奇妙なサプリメントの名前の軽やかな羅列そのものにあるわけでは決してなくて、最後の行にはっきりと示されている通り、言葉そのものが大化けしてサプリメントになってしまう過程、そして、その言葉を次々にごくりごくりと飲み込んでいくことにより、自らのこれまでの言語体系そのものを根本からぶっ壊したいと願っているあなた自身の姿を描いているところにこそあるのではありませんか・・・「行化け詩」シリーズにしたって、「行化け」作業が単に“楽しい”から、というただそれだけの理由で制作されたものなどでは絶対にないはずだ・・・新井さん、あの作品群は間違いなく、安易な明快さや常套句的なわかりやすさにすぐ流されてしまいがちな自分の言葉たちの脆弱性を徹底的に叩きなおすべく、まずはそれら全てをできうる限りナンセンス化してみせようとした、あなたなりの懸命なる自己弾劾の一形態だったはずです、違いますか・・・あなたが先ほど壇上で述べた、「意味からリズムを作るのではなく、逆にリズムから新たな意味を生み出していきたいのだ」という発言中の「新たな意味」という言葉、それが示唆しているものとは、自分の中に澱のごとくねっとりとたまった手垢だらけの日本語たちを、その手で一つ残らず爆破してしまいたいという、いわば“テロル”のごときものだと思うのですが、このわたしなりの読み方ははたして間違っているでしょうか・・・もしも間違っていないとしたなら、なぜあなたは、それをはっきりとこの場で口にしてはくれないのですか・・・まさかあなたは、自分の詩の“暴力性”をしっかりと認識していながらも、それを“音楽性”や“リズム”の美名の中にうまくくるみこんで、われわれ読者の目からあえて遠ざけようとなさっているのではないでしょうね・・・それとも、わたしの方が勝手な誤解にひどく耽りすぎているだけのことなのでしょうか・・・などとあれこれ思いを巡らせながら、彼女のトークを静かに拝聴していたのである。

 言葉遊びにかくも興じはじめた主な理由の一つに、自分がこれまで日本語教師として出会ってきた数多くの外国人学生たちの存在がある・・・イベントの冒頭、新井さんはこのようにも告白していた。日本語を覚えたての彼らが、様々な漢字を好き放題に駆使して、自分たちのカタカナ表記の名前を(奇妙な)日本人風の漢字名に次々と変えて楽しむ様子を何度か見かけるうちに、自分もいつしかそうした遊戯に惹かれるようになっていったのだという。
 なるほど、と思わず膝を打ったわたしは、返す刀で次のようにも考えた。その外国人学生たちは、いったいいつまで、その言葉遊びに夢中であり続けることができただろうか。日本語を学べば学ぶほど、日本語の様々な文法や日常会話における諸々の決まりごとに精通すればするだけ、彼らは“自分の名前に漢字を好き勝手にあてがって面白がる”という以前の行為をよりいっそう幼稚に思うようになっていったのではなかろうか。そしてますます、“遊ばない”日本語運用者へと近づいていったのではあるまいか。


撮影:首藤幹夫

 わたしの心にふと浮かんだこの気ままな着想は、イベントの最中、ひょんな方向から正当性めいたものを与えられることとなった。新井さんの対談相手たるジェフリーさんの発言が、思わぬ形で補助線となってくれたのである。驚くべき日本語運用能力を誇る彼が、「試しに書いてみた日本語の詩をここで皆さんに紹介してみたい」と言いながらスライドに映し出した作品群の一つに、以下のごとき一節があった・・・「子音が母音になるのは文法上許されないから」。
 たしかにその通りである。子音は決して母音なんかになりはしない。しかし、このフレーズの中でそれ以上に重要なのは、「文法上許されない」というメッセージそれ自体の普遍的な重みの方である。「文法上許されない」日本語とは、本来ならば“許されざる日本語”でしかない。日・英の翻訳者として、この事実を痛いほど身にしみて知っているジェフリーさんがわれわれに見せてくれた自作の詩はどれも、限られた語彙を存分に操作しつつ、できうる限りわかりやすく、日常の文法をむやみに逸脱することなく、自らの思いを我々へ向けてストレートに謳おうとするものばかりであった。無論、そういう詩もこの世に存在して然るべきである。しかし、新井さんの詩は、もはや別の方向を向いてしまっているのだ。言語とは、極めれば極めるほど、ネイティブスピーカーに近づけば近づくほど、逆に自由度を奪われ、陳腐さに溺れ、冒険を夢見ることを自らに許さなくなっていきがちなものなのだ・・・彼女はそんな自分の今のネイティブさを、意識的にか無意識的にか、とにかく根底から壊してしまいたがっているのだ。それも、言葉の“ダンス”という名の暴力で。
 こう考えてくると、詩集『タマシイ・ダンス』の最終部に置かれた「アメノウズメ賛江」の中に登場する古代の舞踏の女神・アメノウズメは、まさに“新井さん本人の化身”という具合に読めてくるだろう。女神の取るべき一挙手一投足を、一つ一つ丹念に思い浮かべていくことを中心テーマとしつつも、この詩はそれと同時に、各行中の「アメノウズメさん」の表記法をなぜか次々に(そして斬新に)変化させていく。「アメノ渦女さん」「アメノ生素命さん」「飴ノ有珠メさん」「天ノ宇主冥さん」・・・という具合に、前の行の自分をいったん壊しては、再び新たな名を獲得する変身作業を延々と繰り返し続けるこの女神の姿こそ、詩人・新井高子が思い描いた究極の自己破壊(あるいは自己更新)のありようではなかったろうか。


開演前の練習

 ここで新たな問いが生まれてくることになる。本当に新井さんは、ただ単に自分を壊してしまいたがっているだけなのだろうか・・・壊しに壊したその先に、彼女はいったい何を待望しているのだろうか・・・このさらなる疑問を念頭に置きつつ、再び『タマシイ・ダンス』のテキストを読み返してみたわたしは、彼女のいくつかの作品中に、その答えらしきものを発見したのであった。そして、この答えこそが、彼女の詩の世界の核心中の核心、いわば真の“深み”の部分であるように思えてならなかったのである。
 自分の言語世界を壊し、いまの自分そのものを壊すことで、新井さんは死者たちとつながりたがっているのだ・・・そして、壊れた自分の言葉たちとその死者たちを、何とかして一挙に蘇らせようとしているのだ・・・哀しく死んだ往年の女工の魂が憑依したかのごとき巻頭作品「Wheels」にしろ、詩人の記憶の中に今も残る(死者と思しき)年老いた糸繰り女の幻めいた姿を描いた「糸車」にしろ、どちらも“死者への強烈な思慕の念”で見事に貫かれているではないか・・・そしてこの感覚は、「十円玉~ある降霊術」や「虚空」といった作品に見られる“いまは亡きタマシイへのはかなき呼びかけ”とも、どこかできっと通じ合っているのだ・・・彼女の詩の世界をこのように集約して読み取ることは、はたして誤りであろうか・・・今のわたしには、そう読むことが最もしっくりくるのだが。
 先ほど触れた『ジャパン・タイムズ』の書評の中にも、この感慨にわりとよく似たコメントが少なからず見受けられる。戦地における死者数確認の様子とアメノウズメに対する祈りの声を巧みに混成させた「朝をください」という題名の作品に関して、書評の筆者はこう述べている・・・「ページの上に散らばっている死体は、言葉の呪文によって一時的に蘇る。暴力によって被ったそれらの死は、世界に再び光をもたらそうとする舞踏の女神と、対比的に描かれている。ここで神話は現実と出会い、希望は暴力に立ち向かう」。
 この引用部分の最初の一文に関しては、わたし自身も大いに同感であった。しかし、その後半部分については、若干の印象のずれを感じざるをえなかった。どうやらこの書評の筆者は、「死体」を作り出した「暴力」に対して、アメノウズメが「立ち向かう」という図式を強く思い描いているようである。しかし、わたしはそれとは少々異なる図式を思い描きながらこの詩を味わっていた。この舞踏神は、「暴力」に敢然と立ち向かったり、それを正そうとしたりするために、ここにわざわざ降臨しているわけではないはずだ・・・「暴力」それ自体に対して、アメノウズメは何の積極的関与も期待されてはいないはずである・・・詩人がこの女神に求めているのは、「暴力」がようやく去ったその後で、死者たちを密かに蘇らせること、ただそれだけなのではあるまいか・・・神話と現実は直接出会ったりはしないのだ、神話はむしろ、現実が立ち去ったその後にこそ初めて浮上してくるような存在なのだ・・・そう強く感じたのである。
 死者を蘇らせようとするアメノウズメの姿は、他の作品(たとえば「星雲」「乾いた土地では、」「夜明けがくるたび、」)の中でも鮮烈に描かれている。これらの詩がイラク等の中東紛争にあえて触れているところに注目して、「ここに新井高子という詩人の政治的な側面が著しく見うけられる」「このようなインターナショナルな側面を有しているからこそ、彼女の詩は日本という枠を軽々と飛び越える形で、新たな読者を獲得することができたのである」と論じようとする多くの読者が、この世には間違いなく存在するはずである。『ジャパン・タイムズ』の書評が、彼女の詩の中に「はけ口のない怒り、すなわち、経済的な没落が引き起こした崩壊と喪失に対する、詩人の握りこぶしの震え」といった政治的な告発性を見出したのも、一応は理解できる。また、新井さんの故郷・群馬県桐生市にゆかりの深い紡績工場の歴史を背景に、女工たちの死せる魂を切々と歌った別作品「月が昇ると、」について、ジェフリーさんがイベントの中で「デトロイトの自動車産業や、マンチェスターの紡績産業の斜陽ぶりをも喚起させるだけの強みを持っている」と個人的感想を述べていたが、こうした指摘にもそれなりの意義は間違いなくあるであろう。しかし、こうした告発性や国際性は、新井さんが初めから意図的に狙って挿入したものでは決してなくて、作品完成の寸前にたまたまくっついてきた、いわば“副産物”のようなものに過ぎなかったのではあるまいか・・・というのが、わたしの(勝手な)推測なのである。あえて再度繰り返すが、彼女の本来の切なる望みは、自らの詩の中で“死者を蘇らせる”こと、ただその一点に過ぎなかったのではあるまいか。「四十四年、糸繰りをしたばあさんは / 今際の床でも / 人さし指の先を舐めては撚り上げる、 / そのしぐさから逃れることができません / 冥土でも、そうでしょう / 糸というのは限りなく細いですから / 操つるものたちの肉体に / かえって身ぶりが染み込んでしまうのです、」という「月が昇ると、」の一節に込められた“亡き人をこの場にまるごと想像したい”という強烈な意思こそが、彼女の真のテーマであるはずなのだ。そして、この根本姿勢こそが、『タマシイ・ダンス』の中においては、日本人の死者と非・日本人の死者を全く区別することなく、自由闊達に発露されているのである(ちなみに、ジェフリーさんがイベントの中で、「朝をください」の英訳版の題名“Give Us Morning”について、「この“morning”という言葉が、英語圏の読者の耳には、どうしても“mourning”(死者を悼むこと)という同音異義語を同時に連想させちゃうんですよね」と述べていたことが、いまのわたしには、奇妙な符合の一致のように思えて仕方がないのである)。
 この点に関連して、ついでに注目しておきたいのが「流星群」という興味深い詩である。この詩は一見すると、日本社会ならではの「自由経済のルール」を皮肉った、新井さんならではの社会風刺・・・という具合に思わず読めてしまいそうな仕上がりとなっている。だが、よく読んでみると、この詩の真の主眼が全く別のところにあることに、読者はすぐに気がつくであろう。この作品の中で詩人がもっとも注目しているのは、この「自由経済のルール」に違反した数々の会社が、証拠隠蔽のために次々に消し去っていった、何億通にも及ぶEメール上の「ことば」たちそれ自身なのである。この消されたことばたち、いわば“死せることばたち”が流星となって天空上に蘇っているさまにこそ、彼女は最良の詩的価値を見出しているのである。詩集のページ上に漂う、見た目の「政治性」「告発性」「国際性」ばかりに目を奪われてはならない。そのような方向性の有無に関わらず、相手が人間であれ、ことばそのものであれ、詩人・新井高子の作品群はただ無我夢中に死者をじっと見ているのだ。


開演前の新井

 もう一つだけ、『ジャパン・タイムズ』の書評とわたしの読み方の間に齟齬を感じた部分がある。書評の筆者は、アメノウズメを「暴力に立ち向かう」希望、すなわち、いわば“非暴力的な存在”としてとらえたがっているようなのだが、それに反してわたしの方は、詩集を読み進めていくうちに、この女神のことを「暴力のもう一つのかたち」のごとく位置づけるようになっていったのである。自ら(のことば)を壊しつつ、自己更新をひたすら繰り返す彼女の舞いは、まさに“踊る暴力”なのである。
 それではなぜ、「死者とつながりたい」「死者を蘇らせたい」という飢餓感を満たすための条件として、「今の自分の言語体系をぶっ壊すことで、自分自身をもぶっ壊す」といったような暴力性が必要となってこなければならなかったのか。その答えはもはや明白であろう。今の自分の言語体系にぬくぬくと甘んじていたら、死者とつながりあえるだけの特異なコミュニケーション力を持った言葉は絶対に期待できそうにない・・・死者と出会うために「積み石にする」(作品「ススキ河原」中の一節)べきことばとは、いったいどのようなものなのだろうか・・・「箱庭の浄土なんて / いらない」(作品「沙羅」中の一節)と叫ぶ死霊たちを、“真の浄土”へと救い出してあげるためのことばとは、いったい何なのだろうか・・・そんな焦燥感めいたものが、詩集を読み返すごとに、わたしへとあらためて迫ってきたのである。
 この焦燥感を非常に面白い形で示唆しているのが、宮沢賢治の代表作「春と修羅」の本格的パロディともいえそうな「春の修羅」という作品である。いまの自分をぶっ壊し、(死者と生者がまるごと同時に存在する)この大宇宙と一体化することだけをひたすらに模索しつつも、それがなかなかできないばかりに、仕方なく歯軋りしてばかりいる賢治のオリジナルの詩の真っ只中に、まさに唐突な形で、(新井さん自身と思しき)別の人物の声が乱入してくる・・・このように、かなり奇妙な構造を有するこの詩において、中でも特に興味深いのは、このもう一人の人物が、歯噛みしている賢治に対して暗に示す“叱咤激励”のごときスタンスである。賢治さん、あなたもわたしもたしかに修羅ではありますが、修羅でありながらもわたしたちは、樹林たちと曲がりなりにも響きあえているのではないでしょうか・・・わたしもあなたもこの春の中で、まだまだ十分に滴りあえる存在なのではないでしょうか・・・「コノカラダソラノミヂンニチラバレ」と絶叫しつつも、壮大なる他者たちとなかなか一体化できない自らの限界になお苦しむ「修羅」賢治に向かって、新井さんと思しきこの人物は、まるで慰撫するかのごとく問いかけ続ける・・・「あなたの『修羅』の体は、いつか見事に砕けるはずです」「そしてあなたはいつの日か、世界と一つになれるはずなのです」というこの声なき声が、わたしにはまるで聞こえてくるかのようであった。そしてわたしには、それがまるで、賢治というペルソナを通じて新井さんが自分自身に向かって発している問いかけそのもののようにも思えてならなかったのである。おまえは自分自身をもっともっと「ミヂンニ」できるはずなのだ、そして、この大宇宙の中へとさらに散っていけるはずなのだ・・・という祈りにも似た詩人の自問の声が、今にも聞こえてきそうだったのである。
 「立テバヨイトイフダケダッタ / ソレダケ、/ 朝トイフノハ」(『タマシイ・ダンス』の最後を飾る作品「空ノ庭」の最終行)というフレーズをあえてもじって言うとするなら、「詩ヲ書ケバヨイトイフダケダッタ / ソレダケ、/ “死者タチト遭フ”朝トイフノハ」とでも言えそうな気運が、この詩集中にはところどころに見受けられる。そして、そのような朝こそが、真に「ユメヲコエル」(「空ノ庭」の冒頭)ことのできる朝なのである。


開演前のアングルス

 ここでもう一つ、新たな問いがわたしの中に浮かんでくる。われわれ生者は、死者たちの住む大宇宙と本当につながりあうことができるのだろうか。たとえどんなにおのれのことばを更新したとしても、亡き人々の“今”を正しく思い描くことなど、やはり不可能なのではあるまいか。「死者たちの声を蘇らせたい」「死者たちとつながりあいたい」と志向する文学作品に対し、われわれは何の疑問も抱かないままで本当によいのであろうか。むしろ、「たしかに死者の声がまるで聞こえてくるかのようではあるのだが、その声が実際に何を言っているのかについては、どんなに努力しても実は全くわからないのだ」と正直に吐露してくれるものの方が、読む者の心によりいっそう染み入ってくるのではないだろうか。
 いまわたしは、最近読んだ二冊の書物のことを再び思い出している。思想家・内田樹さんの書いた『死と身体~コミュニケーションの磁場』(医学書院・2004年)と、原爆文学研究者の川口隆行さんが書いた『原爆文学という問題領域』(創言社・2008年)の二冊である。異なる学問的背景を持ったこの二人が、偶然にも全く同じ問題提起を行っているのだ。内田さんは自書の最後部の中で、「死者の声を代弁してはならない」と繰り返し強調している。“死者に代わって語る”資格を安易に自分に授与してはならない・・・死者の声がたとえ聞こえたとしても、決してその声を自分のことばで翻訳しようとしてはいけない、と唱え続けるのである。一方、川口さんの本は、亡くなった被爆者たちのことを作品化しようとするあらゆる文学的行為に対し、“死者の記憶、死者の痕跡をおのれのアイデンティティ構築に利用する”という打算を抱かぬよう常に自戒せよ、と呼びかけ続ける。著者のみに都合のいい“死者の動員”はできうる限り控えよう、と訴え続けるのである。
 新井さんは、このような訴えに対して、いったいどのような反応を示すのだろうか・・・と戯れに想像しつつ、わたしは彼女の別作品「タマシイ・ダンス」「火が出たらどうしよう」の二つを再び読み返してみた。前者の詩は、身体からすでに遊離した「タマシイ」の姿を、かなり漫画的に戯画化している(「タマシイは、 / タップする ステップする シェイクダンスする / 火ノ玉サンと / 自転車漕ぎする / 腹減らしたいワケヨ」)。一方、後者の詩においては、死に対する深い不安が素直に吐露されている(「もし朝の電車が / 発火したら、 / 烈火したら、 / 劫火したら、 / (・・・) / ともる 奈落火 / (・・・)/ 怖いんです」)。もしかすると前者の戯画化は、“タマシイの声を翻訳しようと企む”自分自身に対する、一種の揶揄の現れなのではあるまいか・・・そして、もしかすると後者は、“死者の声を代弁する資格”が自分に全くないことを暗に示している作品なのではあるまいか・・・これら二つの作品群には、彼女の“死”に対するさらなる多様な対応ぶりが少なからずうかがえるように思うのだが、いかがであろうか。

表題作品
「タマシイ・ダンス」イメージ
(絵:新井高子)

 わたしのここまでの読み方は、はたして“行き過ぎだらけ”(あるいは“曲解だらけ”)であろうか。もしかして、わたしの個人的なファンタジーを、新井さんの詩に闇雲に投影してしまっているだけなのだろうか。ああ、もはやわたしにはわからなくなりはじめている。とにもかくにも、『タマシイ・ダンス』をいちから見直し、自分なりの確認作業を繰り返していくたびごとに、いつもわたしは、「この詩集は『自己破壊』と『死』に色濃く彩られた作品である」という、えもいわれぬ感慨に襲われ続けたのである。それこそがこの本の“深み”の核心であるはずだ・・・と、わたしはここであえて断言したい気持ちでいっぱいなのである。もしかすると新井さん本人は、「それ、違います」と答えるかもしれない。しかし、もしも本当に彼女からそう言われたとしたら、わたしは思わずこう返答してしまうかもしれないのだ・・・「新井さん、あなたは自分の詩のとてつもない奥深さにまだちゃんと気づけていない」・・・と。

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