今年の6月は、とびきり爽やかでした。その土曜日に、大船渡市盛町の総合福祉センターで8回目の「わくわくな言葉たち」を催し、よく晴れた翌日の日曜日には、赤崎町の青空市場、「赤崎復興市」を訪ねました。
広場の四辺には、美味しそうなもの、かわいいものを商う屋台が並んでおりました。大津波に耐えた赤崎の欅をパッチワークの模様にした花瓶敷、地物のちりめんじゃこ、郷土菓子「かまもち」などを物色したあと、案内してくれた中村祥子さん(愛称、サッちゃん)と、広場の真ん中に設えられた椅子に座り、正面ではじまった歌とギター演奏に耳傾けておりました。
すると、お尻がもずもず、くすぐったい。ふり向くと、つややかな額のおばあちゃんが、ニマッと笑ってる。突っついていたのです、わたしたちのお尻を、じぶんの杖で。それは、まるで意のままに伸びる腕のようでありました。「見たこどない尻だもの。どごから来だぁ?」。
サッちゃんがわたしが横浜から来たことを伝えると、「あれまぁ!」と、たまげるおばあちゃん。「これがホントのお尻合い(お知り合い)」と、すかさず合いの手を入れるサッちゃん。ちょっくら年少の二人のおばちゃんも輪に入り、おしゃべりの花が一気に咲きます。このノリの良さ、わたしの実家の織物工場の織り子さんたちにも相通じます。
口八丁、手八丁のこのおばあちゃん、お年を尋ねたら、なんと、92歳だとのこと。赤崎は質の良い牡蠣養殖で有名な町。殻からその身を取る「牡蠣剥き(かきむき)」のしごとを、ほんの数年前までやっていたそうです。ずっと現役だからいつまでも若いんだよ、とサッちゃん。「いやいや、膝は悪いけども、口の方がよっぽど悪い」と、みんなを笑わせつつ、頭の回転もメチャクチャ速いおばあちゃんでありました。
目をパチクリしていると、じぶんの手提げに手を突っ込んで、「ほら、土産だがら」と、わたしの手のひらに授け物を……。見れば、高級品の「塩うに」のビン詰ではありませんか。よく冷えているので、おばあちゃんも市場で買ったばかりなんでしょう。じぶんや家族の楽しみのための贅沢品に違いありません。「いいですよ。もったいないですよ」とひとまず遠慮はしてみたものの、「なぁに、遠ぐから来たんだがらぁ」と押し返され、けっきょく、ありがたく頂戴してしまいました。
「食べたらお礼状を書きますから、名前とご住所、教えてください」と手帳をもそもそ取り出すと、ちょっと自慢げな声で「ヤマモト、フジコ!」。「はい、ヤマモトさんですね」、バカ正直に書き留めていると、周りのおばちゃんたちは大笑い。「その人は、大船渡のヤマモトフジコさんだよ」。
往年のミス日本、女優の「山本富士子」をパロっていることに、ようやく気付いたわたし。フジコはフジコでも、じつは別の姓でありました。でも、よくよく眺めると、おばあちゃんも鼻すじの通った富士額ではありませんか。徳のある顔立ちですから、若いときは雛人形のようにベッピンだったはず。大船渡の「ミス日本」たちの、あけっぴろげな笑顔を何枚か撮りおさめ、「手紙といっしょに写真を送りますね」。
復興市場を後にした車中で、ここには、旅の人を大事にする慣わしがあるんだよ、とサッちゃんから教わりました。風来坊の作家、きだみのるが住み着いたのもそんな理由からだろう、とも……。
それから横浜の自宅に戻り、おばあちゃんの「塩うに」、ほっぺを落としながら堪能したのは言うまでもありません。温かいご飯に乗せたり、日本酒のつまみにしたりして、ちびり、ちびりと……。そのたび、突つかれたお尻の感触や賑やかなその声が蘇ってきました。大船渡に通って、「わくわく」な気持ちをもらっているのは、わたしの方だと改めて思います。
ささやかな菓子折といっしょに手紙と写真を送ると、返事が来ました。
「前略ごめん下さい
……
菓子や写真有難うございます。
友達もとても喜んでおります。
私の一生の宝物です。
私はいつまで元気でいられるか……」。
92歳のヤマモトフジコさん、どこまでもエンターテイナーであります。
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