編集人:新井高子Webエッセイ


10月のエッセイ


  • お食べよ、天下一品を ——粉のお話(30)

新井高子

『秋山祐徳太子の母』出版記念展

 夏のはじめに、銀座のギャラリーへ出掛けました。『秋山祐徳太子の母』出版記念展。美術家・秋山祐徳太子さんが母親、千代さんについて書いた本の出版を記念して催されたこの展覧会には、秋山さんの文章、そのブリキ彫刻やブリキ絵画、それから、写真家・石内都さんが千代さんの遺品を撮った写真が展示されていました。
 愛用した和装バックの口金の細工の丹精なこと。閉じる時の、パチンという小気味よい音が聞こえてきそうな写真。畳表の草履を撮った作品には、あれ、千代さん、この場にやってきているんじゃないか、この草履を履いて、涼しい顔で立っているんじゃないか……、そう感じざるを得ないほど不思議な臨場感があり、立ちすくみました。なんとなく、写真の草履の上に、ふんわり湯気が昇っているような感じがしたのです。


書籍『秋山祐徳太子の母』

 そして、会場に飾られた本からの抜粋の文章にも目を見張りました。秋山さんが書きとった千代さんの江戸っ子弁、素晴らしいです! 気立てのいい声、その抑揚や間合いが、読み手の耳の中で甦り、展覧会場のそこかしこでコダマしているようでした。声をこのように筆写するのは、かなり難しいことだと思います。
 そのアート、東京都知事選への立候補も含めたパフォーマンスも驚きですが、お母さんもまた傑物。展覧会のチラシには、こんな紹介文がありました。「……息子を見守り、励まし、むしろそそのかし、おまえらしく堂々と生きなと背中を押して(中略)、生粋の江戸っ子で人情厚く、無類の面白がり屋だった母」。
 千代さんが31才(祐徳さんが1才)のとき、つれ合いは他界。その後、新富町にお汁粉屋「千代」を開業し、女手一つで息子を育てた気丈さとともに、なんとも闊達で、楽しいお母さんなのです。息子が芸大受験に落ちたときには、



Y(祐徳):「受験そのものを芸術にしちゃう、てのはどうかな」
T(千代):「受験を? 芸術に? はてさて。そりゃ全体どういうこったい」
Y:「受験番号の『1』番を取るんだよ。それも一度きりじゃなく、受かるまで。毎年、何度でも(後略)」
T:「そいつは面白いや。何を考えてるのかと思ったら、ずいぶん気の長い芸術なんだね。おまいらしいよ。
よぉし、やってみな、おまいが爺さんになるまで。あたしがあっちに行っちまった後も。ハッハッハ」(p74-75)


 会場で売っていた本、迷わず買ったのは言うまでもありません。



 料理の腕自慢の千代さんが営むそのお汁粉屋では、ぜんざい、あべ川餅、あんみつ、みつ豆……も商っていたとのこと。あーー、あたしも行きたかった、と地団駄ふみながらページをめくっておりました。昭和十年代、二十年代の花街のお店には、芸者衆はもちろん、ちょっと奇妙なお客さん、困ったお客さんもしばしば来たので、千代さんは、みんなに面白おかしくその様子を語ったものだそうです。
 「女だと思って、からかいに来るのもいるんだよ。(中略)女房がいるくせに、俺は一人者だなんて見えすいたことを言ってたね。いけズウズウしいったら」(p11)
 興行の券を押し売りにきたヤクザ者を、千代さんがさりげなく断ると、「ちょっと顔を貸せ!」と相手は凄む。すかさず切りかえしたのが、こりゃまた名ゼリフ。
 「何を言ってるんだい! 顔は取り外しがきかないんだよ!」(p14)
 お腹の鍋で餡んこが煮えるみたいに、ふつふつ、笑い転げてしまいました。千代さんは、料理だけじゃなく、ことばもたいへん豊かな人なんですね。


 さて、お店を畳んだあと、この親子は高輪の都営住宅に引っ越しするのですが、その存在感は、高級住宅地の高輪に「下町」を持ち込むのもお安い御用。団地にも人情を行き届かせてしまったんだそうです。
 「そうだ祐徳、松島屋さんの豆大福を十(とお)ばかし買ってきとくれでないか。後でお客さんが見えるから」(p197)
 高松宮邸のすぐそばに松島屋という餅菓子屋があり、舌の確かな千代さんが「天下一品」と評する豆大福が看板商品とのこと。祐徳さんも「これはもう日本一、が過言でないくらいの絶品で、時折、朝のうちに出来たての、まだ温かいままのを買ってきて、母と私の朝食代りにしたりもしたが、こんな幸福、滅多になかろうと思っている」(p198)、と記しています。
 新富町のお汁粉は残念ながら食べ損ねてしまったけれど、高輪の大福は、ぜったいに……。松島屋、この名前をよぉく胸に刻んでおこう。わたしは舌舐めずりしておりました。


 とはいうものの、高輪に用事があるほど優雅な暮らしじゃありません。まして、この猛暑、なかなかそこまで出掛けられない。
 そんなある日、夕涼みがてら、デパート地下階の諸国物産コーナーをふらふらしておりました。いろんな銘菓がひょこひょこ並んでおりました。ふと大福に目が止まり、手にとってなんとなく裏返し……、こ、こ、この店の名、「松島屋」ではあるまいか!
 「なぁに、おまいさんが、あんまりもの欲しそうだから、ちょいと、あたしが手を引いたたのさ。ほら、存分にお食べなさいよ」
 すっきりと夏のきものを着こなした千代さんが、わたしの傍らでにんまり囁いているのが聞こえたような……、そんな気がしました。


松島屋の大福

福々しいですね!