編集人:新井高子Webエッセイ


10月のエッセイ


  • 鍋の輝く小豆たち ——粉のお話(27)

新井高子

ドリアン助川『あん』

 夏の初めに一冊の本に出会いました。それは、ドリアン助川さんの『あん』(ポプラ社)。ドリアンさんとは、震災を踏まえて編まれた詩や文章のアンソロジー『ろうそくの炎がささやく言葉』(勁草書房)の朗読会で知り合いました。
  本の帯に、「甘い餡の香りに誘われて、いつしか人生の深いところへ連れていかれました」とある通り、本書は、ある病を患った老女との出会いによって、ひとりの男が生きることの深淵を覗き込み、自らのトンネルを脱していく物語。そのふたりを結びつける縁が、なんと、「どら焼き」なんですよ!
 商店街の小さなどら焼きスタンドに半ば惰性で働いている男(千太郎)のもとで、じつは熟練の菓子職人であるにもかかわらず、病のため巷で活躍できなかった老女(徳江)が、腕前を活かそうとするのです。徳江がお値ごろなカナダ産小豆を使って餡を作る場面の描写、ほんとうにほんとうに美味しそう。どら焼きもあんこも大好きなわたしは、うっとりしてしまいました。


 <厨房に入ると、昨晩から水に浸けておいた小豆がボウル一杯にふくらんでいた。一粒ずつが光って、調理台まわりの雰囲気を変えていた。食材というよりも、なにかの生き物の群れを見ているかのように千太郎には感じられた>(p28)
<小豆を壊さないように木べらを回しつつ、弱火でじっくり煮込んでいく。そのすべての段階において、徳江は湯気をかぶるほどに顔を近付けていた(中略)。徳江は「おもてなしだから」と言った。「客を?」「違う。豆よ」「豆?」「せっかく来てくれたんだから、カナダから>(p30-31)
<「お……綺麗だ」(中略)。ここまで煮ているのにどの豆もぴんと張っていた。しわが寄っていない。これまでの千太郎のやり方では、小豆はたいていその多くが腹割れを起こし、中身のでんぷん質を吹き出していた。一方で、目の前の小豆は光るがままに炊かれている。整然として、一粒ずつが輝いていた>(p32)


 どうでしょう? 読者の皆さんも生唾が湧いてきたんじゃありませんか。
 この物語では、凛と立つ豆、ひと粒ひと粒へのこのような描写が、登場人物ひとりひとりのかけがえのない「生」と重なっていくようです。豆の美しさと生き抜くことの尊さがいつしか結ばれ、しんしんとその意味を気付かせて……。
 鍋の中の小豆は、人間という群れのさりげない比喩でもあるんでしょう。いいえ、小豆も人間も、たった一度のいのちという根本では、植物と動物の垣根を越え、対等につながっているということ。さらに、高い天空から眺めるならば、そのいのちも、終わるのでは決してなく、つぎの豆、つぎの人、あるいはまったく別の存在へ、ハラリと翻っていくにすぎないこと。
 そして、そんな場所から見たならば、世の中を右往左往する人間とは、大鍋で炊かれていく小豆とまったく同じに見えるでしょうね。ならば、徳江の煮る餡のように、それぞれがつややかに、引き立っていけるといい……。


 先日、この物語をふと思い出し、じぶんでも餡が煮たくなりました。もちろん、徳江さんの足もとにも及ばないけれど、豆が煮汁を吸い込んで、精一杯肥える姿を眺めるのは楽しい。なんだか自分の心も張ってきて、元気をもらう感じです。小豆を茹でる匂いというのは、まるで温泉のほとりにでもいるような……。肩の力が抜け、懐かしいどこかへ連れて行かれる気持ち。
 最近はお店で買ってばかりいたけれど、たまにはじぶんで手を掛けてみないといけないなあ。やっぱり美味しいもの。コクを付けるために、砂糖の二割くらいは黒糖にしてみました。手前味噌ながら、豆の味がまるまると味わえます。旨み、甘み、それだけじゃなく、ほんのり苦みやえぐみもあって。ちょっとナッツでも傍らに添えたなら、餡だけでいつまでも食べていられそう。

 ほうじ茶といっしょに、ひと匙、またひと匙と味わいながら、8月に岩手県宮古市へ行ったとき、きみ粉を買ってきたのを思い出しました。宮古の絶品、あの「きみ大福」にあやかって、じぶんでも作ってみようかな。うちのロボさん(ホームベーカリー)は、お餅つきもしてくれるんだもの。
 そんな挑戦に駆り立てられる食欲の秋であります。


うちの大鍋の小豆たち

いただきます!