スロヴェニアで開催された詩の翻訳ワークショップ「The Golden Boat 2012」(8月26日〜9月2日)に招かれ、この夏は前後を含め十日ちかく、巨大な鍾乳洞で有名な南西部の村、シュコチアンで過ごし、貴重な経験をしました。今回は、その報告をお届けします。
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去年九月、東京ポエトリー・フェスティバル(TPF)で、私のパフォーマンスを気に入ってくれた、ある海外詩人が「来年、自分が主催する国際イベントにタカコを招くよ!」と握手してくれた。そのときは、その言葉だけでこの上なく嬉しく、じつは「夢でもともと」な気持ちだった。が、五月末、招待状がやって来た、本当に! 季節外れのサンタクロースな詩人こそ、イズトック・オソイニックさん(Iztok Osojnik)! (以下、ワークショップでは敬称なしで「イズトック」と呼んでいたので、そう書くことにします。)
が、不安も過ぎった。今回で十回目となる「The Golden Boat」は、朗読会ではなく、参加詩人が互いの作品を自分の言語に翻訳し合うワークショップとその発表会。共通言語は英語だという。日本語通訳ができるスタッフはいそうにない。ブロークンな日常会話なら何とか間に合わせることができるけれど、自分の思索を述べたり、他人のそれを聞き取って滑らかにコメントを告げたりする能力はない。読み書きの方がまだましだけど、詩の翻訳は、TPFに自分の縁で招待した米国詩人の作品を、ジェフリーに助けられつつ、いくつかこなした経験だけ。だから、素直にこう返信した。「私は、あなたの招待をとてもとても光栄に思っています。私はたいへん嬉しくて、ぜひ行きたいです。私は翻訳に全力を尽くします。でも、困ったことに英語力が貧しい。私は私の日本語訳の質を心配しています。こんなでいいでしょうか」(実際、私の英文メールを直訳すると、こういう拙さ…)。
イズトックのリターンは、「おいでよ、タカコ。大丈夫だよ。このワークショップにはオブリゲーションは何もない。一番の目的は、詩人どうしの交流、付き合いだ!」。ふむ、そうか、付き合いならできるかも…。町工場育ちの私は、海外留学はできなかったけど、愛敬は十分に国際基準である(と思う)。
じつは、冒険したい気持ちもあった。なんか滅茶をやって、自分の「枠」を壊したいところだった。だから、この誘いは以心伝心な気もしていた。「本当に大丈夫なの?」と案ずる家族に、「ランボー訳をやった中原中也のフランス語程度の英語は、私にだってある」と豪語し(中也の語学力、じつはアタシ知らないんですけど…)、いざ、旅立ったのだ。
とはいうものの、根はマジメな臆病者である。乗り継ぎを含め、十五時間以上のフライト機内で、出発直前に送られてきた参加詩人たちの提出作品(総計120行以内の詩篇(行数内なら複数篇可))にいっしょうけんめい目を通し、これなら私でも訳せそうで、かつ面白そうな詩を、ひとり、少なくとも一点は選び、これまたいっしょうけんめい辞書を引きまくった。ヨーロッパの詩人は、ワークショップに慣れているのか、短めの詩を含めてくれている人が多く、有り難かった。途中、もちろん眠りもしたが、あっという間の旅。夜九時半のリュブリャナ国際空港には、イズトックが直々に出迎えてくれ、一年ぶりの再会にハグした後、高速道路をブッ飛ばし、シュコチアンまで届けてくれた。
地下洞の無数の雫が、あたかも彫塑をする手指になり、何万年もの時をかけて造り上げた石灰岩の美(その営みは止まることなく…)。それはもちろん圧巻な迫力だったが、村そのものの景観も素晴らしい。異様なほど切り立った断崖と渓谷。獰猛でもひ弱でもでもなく、温厚な面持ちの草木。崖っぷちには赤レンガを積み上げた小さな家とロマネスクな教会。色の澄んだ花々にはミツバチや蝶が飛び交う。「小字」と言えばいいのか、近隣の三集落を合わせても人口は60人程度だろう。私の感覚では十分にホテルの設備だったが、宿泊先のレストラン兼民宿(あちらではSobeという)では、料理の美味しかったこと!
集まった詩人は、イズトックを含めたスロヴェニア詩人が五名。クロアチア、スロヴァキア、ノルウェー、アイルランド、日本から各一名。飛び入りでほかの詩人たちが加わることもあったが、この十名が主要メンバー。顔合わせのディナーの席で、1〜9回の「The Golden Boat」の活動をまとめた本(*1)をもらったが、それを見ると、日本人、いや東アジア人の参加は、私が最初のよう。
案の定、英会話には苦悩した。詩人たちはよく喋る。ワークショップだけでなく、ランチ、ディナー、毎晩の飲み会…。各自の詩、その姿勢やほかの芸術の好み、各国の詩を巡る状況…。それだけでなく、ユーゴ解体後の中欧の政治状況、本と電子書籍の比較、ツィッターとフェイスブックの話、それぞれの仕事や家族のこと…。私はたぶん半分くらいしか聴きとれていなかったと思う。だが、助かったことに、その程度を聴きとって、相手の言葉尻にときどき反応すれば、コミュニケーションは何とか成立するのだった。正しく素早いやりとりは無理だけれど、時にトンチンカンをやらかしつつも、付き合っているという状況を継続していくことはできる。
さらに、そんな私は、翻訳にあたり、尋ねたい疑問を誰よりたくさん抱えている参加者でもあった。下訳をひとまず済ませると、相手を捕まえ、「この言葉、どんな意味?」「この行、わかりやすく言ってみて」「これってメタファー?」「えっ、わかんない。別の言葉で教えてくださーい」等など、しつこく質問をぶつけた。彼らは落ち着いて耳を傾け、じつに粘り強く、身ぶり手ぶりを総動員して教えてくれた(「自分でもよくわからないんだよ」というコメントも含めて…)。どうやら、たった一人、アルファベットでない国からやって来た私の翻訳は珍しがられ、愉快に思われてもいたらしい。返答を聞きながら、和訳を書き直していくノートパソコンの文字ヅラに、子どものように食い入って、はしゃいだり写真に収めたりしていた。
ところで、「The Golden Boat」の楽しさは、翻訳や議論に留まらない。ほとんど毎日、遠足がある! 世界遺産にもなっている鍾乳洞の中はもちろん、イズトックが歴史や植生やそこであった事件などを、冗談混じりで説明するのを聞きながら、渓谷のさまざまな小径の散策、近くの村にある古い教会への散歩(中世フレスコ画が残っていた)、車に乗って町場へ買い物ツアー…。散歩といっても、途中で牛馬に出会い、草の踏み分け道もあれば、きつい傾斜もあれば、沢渡りもある(川で水泳もできるということで日本から水着を持参したが、この夏は雨が少なすぎて残念だった)。つまり、軽い山歩きのようなもの。自然と、おおどかな気持ちになってくる。よく歩き、よく食べ、よく話し、互いの詩に興味を抱いて翻訳し…。このような生活を一週間も続けたら、お互い親しくなるのは、たいへん自然なこと。
ここで、このようにユニークなワークショップを企画するイズトックとその思索について書きたい。彼は、1951年、リュブリャナ生まれ。歴史人類学の博士号を持ち、詩はスロヴェニア語と英語の両方で書ける。刊行した詩集は26冊に及び、小説、文学・人類学・哲学に関するエッセイも出版。「The Golden Boat」の実施母体「I.A.文芸協会(Literary Association I.A.)」を主宰している。「I.A.」という名前は、スロヴェニア南西部で生まれ、才能豊かでありながらも早世した詩人、スレチコ・コソヴェルの詩からとったそうだ。
この協会は、ほかの詩人の協力を得ながらも、要所は単独で切り盛りしている様子。スロヴェニアの詩人に彼について尋ねたところ、「イズトックはインディペンデントな詩人で、それを成し遂げる力量のある人だ」と言っていた。実際、彼は本当に何でもやっていた。ワークショップや発表会の司会、来訪先のツアコンはもちろん、我々の食事の手配(場所は、その日の状況で決まる)、マスコミの取材への対応…。よその町に出かけるときはワゴン車の運転手、プリントアウトを忘れた参加者のためには印刷係、私のスーツケースを二階の部屋に運ぶときはポーター…。ことさら大変そうに息を切らし、運び終えると「こんな重たい荷物、生まれて初めてだったよ」と茶目っ気たっぷりにウィンクした。彼くらいの年齢になると、自分の守備範囲を限定してしまう人の方が普通だと思うが、団体の主幹から雑用係まで、じつにチャーミングにこなした。散策の道すがら、いろんな村人からも声が掛かり、その都度、最低一回は笑わせていた。こういう振舞いは、何らかの達観をした人でないとできないと思う。
「The Golden Boatのユニークな活動の発想は、どんなところから来ているの?」と私はイズトックに投げてみた。その返答の一番目は、意外にも「連歌」だった。じつは、彼ははるか三十数年前の修士課程を京都で過ごし、大谷大学で禅の研究をしていたという。いま、日本語はほとんど忘れてしまったそうだが(その言語環境に戻れば、少しずつ蘇ると言っていた…)、日本文化に精通した人物でもあるのだ。
イズトック(I):「大きなフェスティバルもかつて運営したけれど、終わったあと、虚しく感じることもあった。じつは、連歌のような小さな小さな集まりで、一つの文芸の場を立ち上げること、その方がずっと実り豊かだと気付いたんだ。詩人どうしが親密に語り合い、次への力になるだろ?」
タカコ(T):「ふーん、じゃあ、私はいま、翻訳バージョンで連歌をやってるのか」
I:「いや、そればかりじゃないけどね」
というわけで、二番目に上がったのは「登山」だった。
I:「山登りが好きなんだ。冬の富士山にも登ったことがあるが、登るだけじゃなく、夜は酒盛り。キャリアのある人もそうでない人も、一つのパーティーが連夜いっしょに語り明かす。そういう経験を詩にも持ち込みたかったんだ」
T:「たしかに、洞窟や渓谷を歩き、酒を飲みながらおしゃべりするのは楽しいよ。村の人も温かいよね」
I:「最初は、シュコチアンもワークショップに好意的ではなかった。お金はどうするんだ?、どうするんだ?、そればっかり。でも、詩人たちがここを何らかの形で詩や文章にすれば、宣伝に繋がるだろう。こういう雰囲気になるまでには時間がかかったよ」
T:「禅を研究したことも、ベースになってるの?」
I:「直接には関係ない。が、ここをヒエラルキーと関係ない場所にしようと思ってる。有名な詩人も無名な詩人も、そういう位置づけを度外視して、自由な空気を通わせたい。翻訳のワークショップだって、オブリゲーションは何も設けていない。自分のスタンスでやりたいことをやればいい」
そうなのだ。ここではキャリアの豊かな詩人も、まだ詩集を出したことのない卵の詩人も、同じものを食べ、同じ道を歩き、同じ固さの椅子に座った。勝手にパンをとり、勝手によそ見をし、勝手な時間にベッドに戻った。そして、ワークショップの会場がまた秀逸。村の教会の木蔭のベンチか、Sobeのぶどう棚の下のテラス(おかげで、けっこう日焼けしたが(笑)…)。つまり、まさしく自由に風が、呼吸が、吹き抜けていく場所なのだ。翻訳については、私自身は、せっかく事前に意味調べをしたし、たった一人のアジア人でもあるし、抄訳も含めて各自の作品を試みたが、だれの詩を訳すか、いくつ訳すか、まったく自由だった。そして、そうであればこそ、クールな選択も働いていたようだ。ただ、酒を飲んでいたのではなく、相手を見ていたし、見られていたんだな…。日頃の位置づけを白紙にし、まっさらな状態で互いを感じること。このような批評眼が、自分には希薄であることも認識させられた。
なお、ある日の午後、イズトックが「タカコ、DVD持って来た?」。ジェフリーと私の詩朗読映画(『ヴォイス・シャドウズ』鈴木余位監督)のため、村の会館のホールを手配し、詩人たちに上映会を開いてくれた。TPFのパフォーマンスで使ったとき、「いい映画だ。スロヴェニアでも上映しよう」とたしかに彼は言ってくれたが、一年前の一言をきちんと覚えていてくれたのだ。じつに繊細な心遣いの人でもある。
さて、その翻訳。生まれて初めてこれほど訳に集中した感想から言うと、つかのま、その著者の「からだを被る」感覚がとても面白かった。アラタカの発想にはない作品、到底書けそうにない詩、自分の感受性とは全く違うもの…。それらをこの世で最初に日本語にするのが、ほかならぬアラタカであることの爽快さ! そして、トランスレーションするとき、じつはひょこっとトランスフォームする、私自身を。例えば、機智に富んだイズトックの詩を訳すときは、インテリ坊主とナマグサ坊主を足して二で割った太ッ腹に身をやつし、二十才そこそこの男の子の詩を訳す時には、元気がいいからこそ煮え切らないペニスが、私の股間にヌヌッと生えちゃう感じ。からだの着ぐるみ(身ぐるみ?)を被るのだ。詩というのは、たった一篇であっても、ほんの十数行でもあっても、かなり濃厚に、否応なく、その人自身を宿してしまい、そんな極端すぎる全体性が、この文学形式の特徴でもあるんだな…と思った。
そして、それは「私」を端的に扱った詩でも、そうでなくても、じつのところはほとんど変わらない。例えば、アイルランドのパディー・ブッシュ(六十才代男性)は、神話の中の女の口を通して詩を書いている。それは不思議な若妻の言葉だけれど、その後ろに、奥行きとして、どうしたってパディーがいる。詩にどうしても宿ってしまう「からだ」というのは、表面じゃなく、そんな奥行きの方にあるらしい。著者と会い、体験をともにするワークショップで、朗読の声を聞き、おしゃべりの呼吸を知り、歩き方、食べ方、笑い方、その匂い…に直に接することができたから、一層そのように感じるのだろうが…。そうそう、パディーが私の詩「朝をください」をアイリッシュに翻訳してくれ、ひと通りできた時、「タカコの詩の声を聞かせて」と言った。もちろん、彼は日本語は全くわからない。「?」と思ったが、耳を澄ましながら何度か手を入れ直していた。きっと、このような詩の「からだ」の秘密をよく知った人なのだろう。
そういう意味で、私にとっては、翻訳詩は、この夏出会った詩人たちの「立体ポートレート」。さらに、そこにはきっと、アラタカ自身も入ってる。身ぐるみを上手に着ようとしたって、ぼろっとシッポは出ちゃうもんネ(私は、おっちょこちょいだし)。そして、そんなヘマをやらかしながら、少しずつ自分を変えていけるんじゃないか。
写真は被写体とカメラマンの「関係」を撮っているとよく言われるが、たぶん、翻訳にも多かれ少なかれ、それは言えるんじゃないだろうか。思い切って、翻訳を「関係の文学」と評することもできそうな気がする。その点で、日本語という「カメラ」は、なかなか性能がいいとも思った。標準体、カジュアル体、丁寧体、ひとりごと体、女言葉、男言葉、…、いろんな文体や話体がある日本語は、あたかもガラパゴスケータイのように、かなり多機能だ。ワークショップの議論の際、詩人たちにそんな話をしたら、けっこう面白がってくれた。
なお、私たちの翻訳には、二回の発表会があった。一回目は、8月30日に、シュコチアンの美しい教会で、聖像を背中にして。二回目は、翌日、首都へ移動し、リュブリャナ中心部にある「Trubar Literature House」のホールで、雷鳴とともに。リュブリャナでの会には、地元の詩人や翻訳家たちが聴衆として多数駆けつけてくれた。
(『ミて』120号初出改稿)
*1
Na Zlatem čolnu--Antologija pesmi o Škocjanu / On the Golden Boat--The Škocjan Poems Anthology
Published by Literarno društvo IA (2011)
ISBN 978-961-92945-2-9
*2
スロヴェニア語と英語によるバイリンガル・ウェブサイト
「Literary Association I.A.」のトップページ(英語) http://www.ia-zlaticoln.org/index.php?l=en
その中の「The Golden Boat 2012」のページ http://www.ia-zlaticoln.org/dela.php?l=sl&id=19
ここには、参加者の作品が、原語と英訳のほか、ワークショップでの翻訳成果も入れ、いろいろな言語で掲載されています。
ぜひご覧ください。
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