おじいちゃんが死んでからというもの、ぼくに「もうひとつの世界」の話をしてくれる人はいなくなった。
だから毎晩眠りにつくまえに、ぼくは空想の世界に身をゆだね、「もうひとつの世界」に出かけて行くようになったんだ。
そこでは、ニコとヴァノが出会っては別れ、ときに争い、また握手をかわす。
(エルロム・アフヴレディアニ『ニコとヴァノ』まえがき)
いつもお話している中東の国イランから、今回は、少し足を延ばして寄り道してみたい。
ちょうど今頃の時期、5~6月のイランの日差しは、すでに肌を刺すような激しさだ。太陽に直射された大地の白は、まともに目を開けていられないほど眩しく、木々や建物が落とすくっきりした影は、息をのむほどに黒く深い。
木々が点在するだけの、イラン中央部の沙漠の大地を北上し、カスピ海へと近づいていくと、風は徐々にほっと息がつけるほどの湿り気を含むようになる。田園風景が広がり、野も山も緑に覆われる。カスピ海の西岸をはるか北へと進むと、『旧約聖書』のノアの方舟が辿りついたとされるアララト山(現・アルメニア共和国)が見えてくる。さらにその向こうには、カフカス山系を背にして西の黒海に面した国がある。人口500万にも満たないコーカサスの小国グルジアである。
グルジアは、白と黒が美しい国だ。
民族衣装は、漆黒ではなく、水や風に洗われ色あせたかのような黒の帆布生地。袖や背には、白や赤、オレンジ、水色の色鮮やかな刺繍やビーズで飾られている。揃いの黒の帽子には、この地域で産出されるワインさながらの深紅の糸で十字架の刺繍模様があしらわれている。
グルジアは、最も古いキリスト教国のひとつである。首都のトビリシは、驚くほどこじんまりとしていて、ひっそりとした たたずまいの街だ。ここが旧ソ連の一共和国であったとは、また、大粛清者スターリンの故国であるとは、にわかに信じ難い。2008年のロシアとの紛争(南オセチア紛争)では、グルジアの兵士・民間人併せて400人余りが死亡した。ソ連崩壊による経済的・思想的空白は、今なお社会の構造そのものに深い傷跡を残している。数多の苦難を抱えつつも、昔ながらの人々の生活は、豊かで穏やかだ。親族や友人が集まれば、自家醸造ワインの杯を重ね、地産の料理とおしゃべり、歌を楽しむ。
トビリシから少し郊外へ出かけると、白い石造りの教会が、草深い山野のなかにいくつも姿を現す。白もまた、純白の白ではない。土の混じった乳色、あるいは、紺青の自然石が混じり、陽にさらされた色だ。
穏やかな風景のなかに、溶け込んだ白と黒。それは、善と悪、光と闇のコントラストではない。あくまで、ふたつの存在の合わせ鏡なのだ。『ニコとヴァノ』の15の物語を演じるニコとヴァノもまた、そんな二人である。
黒のダンディズム、ニコ。白のダンディズム、ヴァノ。
ふたりはダンディだけど、颯爽としてはいない。いまひとつ、ぱっとしなくて、どことなくじれったい。ふたりは顔見知りで旧知だけど、とくに仲良しってわけでもない。いつもすれ違いのニコとヴァノ。
ニコとヴァノは、似たような背格好をしている。たいていは隣人同士で、たまには親友だったりもする。でも、あるときはニコが幼いヴァノを育て、あるときは青年ニコが年老いたヴァノに金を借りている。あるとき、世にも不思議で世にも貴重な「青い瞳色のスミレ」というのがあって、ニコは地面に向かって、来る年も来る年も「青い瞳色のスミレ!青い瞳色のスミレ!」と叫び続けた。その間に、ヴァノは、田畑を耕し、妻をめとり、ニコという名の二人の子ども、ヴァノという名の二人の子どもが生まれ、やがて年老いて最後の春に庭を散歩すると、垣根には、青い瞳色のスミレが芽吹く。時の両側で、それぞれの時間の流れを生きる、背中合わせのニコとヴァノ。
ニコとヴァノは、時間を自由に旅するだけじゃない。互いを愛したり奪ったり、殺すことだって自在にできる。あるとき、ニコとヴァノは珍しく親友だった。そして、ヴァノはひとりの女性を愛し、彼女と愛し合った記念のマッチの燃えさしを大切に持っていた。ふたりは親友だったから、ニコもまた、ヴァノが愛している女性を愛するようになる。ニコがヴァノに蝋燭を求めると、ヴァノはそれを与えてやった。だって、ふたりは親友だったから。ニコはその蝋燭の灯りで、愛する女性に手紙を書く。そうして、ニコはヴァノに、帽子を愛を生命の火を求めた。ヴァノは何もかも――マッチ以外のものなら――ニコに与えてやった。
ニコは、帽子と愛と生命の火をたずさえて、愛する女性といつまでも幸せに暮らした。ヴァノのもとには、ただマッチ箱だけが残された。
ヴァノは、胸ポケットのマッチ箱に手をやると、彼女の言葉を思い出した。
「どうして私を見ているの?私のことが好きなの?」
「何をさがしているの? マッチを? はい、これ。」
「記念に取っておいて。」
ヴァノは、煙草をくわえてポケットをまさぐるニコに言った。
「ニコ、僕はマッチを持っている。でも、お願いだから、これだけは欲しがらないで。僕の思い出の品なんだ。」
ニコは、ヴァノのもとを去った。そして、他の友だちにマッチを借りた。
ニコとヴァノは、親友だった。
またあるとき、ニコは、「俺は、ハンターだ。ヴァノは鳥だ」と言い、二連銃を構えて、ヴァノが飛び立つのを待っていた。ヴァノは、恐ろしくなった。「もしかしたら僕は、鳥になって飛び立つかもしれない。ポケットに石をつめよう。体が空に浮いてしまわないように。ツバメを見てはだめだ。飛び方を覚えてしまうから!」
しかし、やがてヴァノは飛び立つ。「もし、僕が鳥ならば、地上で死ぬよりも空で殺されたほうがましだ!」ヴァノは、ニコが放った弾で撃ち落とされ、あとには、ぽっかりとあいた空が残された。
『ニコとヴァノ』の作者エルロム・アフヴレディアニ(Erlom Akhvlediani, 1933-2012年3月)は、何よりもまず、映画脚本家として知られている。2004年ビターズ・エンドが映画祭「イオセリアーニに乾杯!」を開催し、フランスで活躍するグルジア人映画監督オタル・イオセリアーニの作品を一挙公開した。同監督の初期作品『四月』(2002年カンヌ招待作品)や、伝説の天才画家を描いた映画『ピロスマニ』(シェンゲラヤ監督、1969年日本公開)の脚本を手掛けたのが、アフヴレディアニだった。そして、彼が書いた数少ない文学作品のひとつが、『ニコとヴァノ』である。
原書は、文学書というより小冊子のようなラフな装丁で、表紙と裏表紙はピンク色。こじゃれた落書きみたいな挿絵が、あちらこちらにちりばめられている。それぞれの物語の登場人物は、たいていニコとヴァノの二人だけ。ときどき三人。(七人のニコと一人のヴァノが出てくることもある)。大きな事件は何も起こらないけれど、時の流れを勝手に速めてしまったり、二つの時間が同時進行したり、主体と客体がひっくりかえったり、名まえも存在もいつの間にかすり替わっている。そんな小さなイタズラやしかけが、ひとつひとつの物語に複合的に埋め込まれることで、読み手は「もうひとつの世界」を垣間見ることになる。
有名脚本家アフヴレディアニのいわば習作として、長く読み継がれてきた『ニコとヴァノ』だが、実は、思わぬところでも活躍している。外国人のグルジア語学習用定番テキストして根強い人気を誇ってきたのだ。ルーツや語系統が謎に包まれた言語は世界に数多いが、グルジア語もそんな言葉のひとつである。グルジア文化への扉を開けたとき、「もうひとつの世界」への魔術師が、さらなる深奥へとわれわれを手招きしてくれる。
『ニコとヴァノ』
原典:Erlom Akhvlediani, Vano da Niko, Tbilisi:Nekeri, 刊行年不明
翻訳:前田弘毅(http://jbpress.ismedia.jp/search/author/%E5%89%8D%E7%94%B0%20%E5%BC%98%E6%AF%85)
写真:前田弘毅・前田君江
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