編集人:新井高子Webエッセイ


10月のエッセイ

  • 獅子茸、土の精 ——粉のお話(9)

新井高子


獅子茸

秋といえば茸です。
 思うに、これほど、人の欲望を麻薬のように掻き立てる食べ物は珍しいんじゃないか、と思います。噛みしめて、笑いが止まらなくなったり、幻を見たり、さらには、そのまま冥土へ行っちまったり…。茸を採りに山へ出掛け、行方知れずになる人だって、いまも、あとを絶ちません。

どんな茸を好むか、その嗜好も、びっくりするほど地域性が豊か。しばらく前、長野県伊那市を、ちょうど秋に訪れたときには、黒皮(くろかわ)とか虚無僧(こむそう)とか、それまで見たことのなかった種類に、目を見張りましたっけ。地物のお土産屋さんだけでなく、ごくふつうの八百屋や肉屋の店先にも並んでいて、とっても嬉しくなりました。居酒屋の暖簾をくぐったら、黒皮の焼き物がお薦めになっていたので、コリコリした食感を、さっそく満喫しました。
 これは、日本だけじゃないのかな? 例えば、あのポルチーニ茸。秋になると、イタリア中が眼の色を変え、触手を伸ばす茸ですが、思えば、フランス料理では、とんと聞かない。隣国ではまったく採れないとは思えないのですが、少なくとも、東京のフランス料理屋で、秋の旬として紹介されているのを見たことがない。わたしが無知なだけかもしれないけれど。
 松茸もまさしく…。よく行くスーパーや八百屋には、中国産や朝鮮半島産しか並んでいないけれども、国産と比べた値ごろ感は、ご当地の皆さんが興味を持っていないことの裏返しですもんね。

さらに、群馬と栃木と言えば、よその人には、どっちがどっちか、覚えられない県として有名ですけど(苦笑)…、言葉はもちろん、茸の好みでも、かなり違いがあるんですよ。栃木の人は、煮ると、オッパイのようなエキスが出てくる乳茸(ちちだけ)を、うどんや蕎麦に入れて食べるのが大好き。一方、わたしの故郷、桐生は、栃木との県境にある町ですが、野趣あふれる獅子茸(ししだけ)が、ずっと優勢です。
 とは言っても、こういう違いって、今では70才以上でないと実感できないかもしれません。それ以下の世代だと、よっぽどの茸好きでない限り、椎茸とかシメジ茸とか、そういう全国的なマーケットに乗っている「商品」ばかり食べて、大きくなってしまった気がします。これは、見事に方言も同じ。流通にしろ教育にしろ、戦後の「システム」が行き届いちゃった後の人間、ってことなんでしょうネ。
 もちろん、わたしもその一人。だけど、ありがたいことに、実家の食卓は、来月、98才になる祖母が、ずっととり仕切っていたので、妙に昔風でした。それで、おばあちゃんから、この連載エッセイのネタを授けてもらえているのですが、やっぱり、獅子茸狂いなんです、彼女が。

芥川龍之介の『芋粥』に、こんな一節があります。食べ終わった後のお椀を目の前にしている、中年男の描写。

「恐らく芋粥の二字が、彼のすべての思量を支配してゐるからであらう。前に雉子(きぎす)の炙(や)いたのがあつても、箸をつけない。黒酒の杯があつても、口を触れない。彼は、唯、両手を膝の上に置いて、見合ひをする娘のやうに霜に犯されかかつた鬢(びん)の辺まで、初心(うぶ)らしく上気しながら、何時までも空になつた黒塗の椀を見つめて、多愛もなく、微笑してゐるのである。……」


八百勇のレシピ


干した獅子茸


炊く前に、煮付ける


炊飯器にセット


いただきます!

獅子茸と祖母のつきあいも、こんな風情とよく似ている。その名前を聞いただけで、年寄りの頬がぽっと紅くなり、まるで、せかいいち極太い豚骨を、よだれを垂らしながら夢想している犬のように、すとんと、口の締まりがなくなって、いつしか、口角は、「たあいもない微笑」を引き上げている。

ただ、わたしが、獅子茸の美味しさを、ほんとうにわかるようになったのは、ごく最近のことです。子どものときだって、かなり貴重で、茸採りをする祖母の友達が、たまたまお裾分けしてくれた時だけ、ありつけたのですが、深い思い入れはありませんでした。なんだか不思議な食べ物…というだけで、祖母の嬉し顔の方が強烈でした。
 でも、兄は、茸のためなら山歩きもする大人に成長し、思い出させてくれたのです。数年前、「秋は、獅子茸だ!」と、桐生の天然きのこ店に連れて行ってくれた。それで、独特としかいいようのない匂いと、色と、その味に、魅了されてしまったのでした。

獅子茸は、天ぷらにしたり吸い物に入れたりするのも美味しいそうですが、うちでは、もっぱら炊き込み飯にしていたので、いまも…。
 桐生のきのこ屋さん、「八百勇」(http://toprunner.krip-blog.com/?eid=341323)から、レシピの紙もいただいたので、詳しくは、写真をクリックしてご覧くださいネ。

これは、別名、「香茸」とも呼ばれます。料理するときは、その風味をいっそう濃厚にするために、数日、干してから使います。でも、俗にいう「いい匂い」とは別物。初めての人は、うっと、鼻をつまみたくなるかもしれません。ちょっと、くさや系にも似た…、でも、もちろん、人の手で発酵させたのではない。なんというか、ざわざわと豊かな森の、苔むした大木の根もとの、じめっとした土の匂い。それが、茸という傘の下で、静かに、念入りに時を重ねた…、と言えばちょっとは近付くかなぁ。
 その味も、森の「土を食べてる」感じなのです。五味の枠からはみ出した、もっともっと本能的な味。足の裏から、元気が沸くような…。いっしょに炊くと、イカスミのパエリアのみたいに、ご飯が黒くなります。山椒の粉を、パラッと掛けても美味しいですよ。

あんなにゾッコンになっていた祖母の胸のうちが、ようやく、ちょっぴりわかってきました。『芋粥』の主人公が山芋という「山の精」に恋したのだとするなら、うちのおばあちゃんは、獅子茸という「土の精」にときめいたのだな…。それらは、ほんとうに「妖精」なんじゃないかしら…。「精がつく」って、もともとは、そういう意味じゃないのかな? 食べるという営みの中には、じつは、妖精との交信も入っているのかもしれません。
 食べ物が、何重にもラッピングされた消費社会、商品社会では、だいぶ鈍感にならされてしまっているけれど、心の臓が「どきん!」とする食べ物って、あるんですよネ、いまも。