イランの現代詩人アフマド・シャームルー(1925-2000)の詩に「内なる寒さ」というものがある。かつてドイツのテレビ番組でこの詩が話題になったことがあるらしい。道行く人に詩を読んでもらい、「この詩句からなにを感じますか?」と問いかける趣向である。
すべて
わたしの手と心のおののきは
それがゆえだった
愛が
隠れ家となることへの、
飛翔ではなく
逃げ場となることへの。
ああ 愛よ ああ 愛よ
お前の青い顔が見えない
件のドイツのテレビ番組は、ペルシア語放送局の番組だったのだろうと思う。ドイツは、アメリカ、スイスなどと並び、イランからの移民が非常に多く独自のコミュニティーを作りあげている。ペルシア語の出版社などは無論のこと、放送局や新聞社もある。番組インタビュアーの狙いは、上の詩句の不可思議なリフレイン「ああ 愛よ ああ 愛よ/ お前の青い顔が見えない」に、読み手が何を感じるかであった。この詩のなかで語り手は、愛が逃げ場であったり鎮静作用をもたらすものではなく、常に飛翔のエネルギーとなり炎の情熱となりえることを切に望む。もっとも、その願望の表現は、詩がすすむにつれて枝葉を切り落とされ、なにか空間的観念のようなもの、さらには、色彩の対照のみが残される。そして、その合間に、この不可思議なリフレインが繰り返されるのだ。
ああ 愛よ ああ 愛よ
お前の紅い顔が見えない
* * *
青の清麗に
黒
はなずおうの花に
葉の緑。
ああ 愛よ ああ 愛よ
お前の慣れ親しんだ色が
見えない
シャームルーは、リフレインが放つ魔力を、好んで用いた詩人だった。リフレインにはいくつかの働きがある。第一に、リズム。同じ(または類似の)詩句を繰り返すことにより、リズムや音韻の呼応が生み出されるというもの。ことに、シャームルーは、リフレインとなる詩句を、このうえなく音楽的なものにすることに熱心だった。第二に、円環構造を創り出す働き。詩は自在に乱舞して進みながら、もう一度、さらにもう一度と同ところへと戻ってくる。円環的な時間と構成は、詩を特徴づけるもののひとつである。
そして、第三に、上のふたつを踏まえ、リフレインは「うた(唄/謡)」の性質を帯びてくる。すなわち、語りである以上に、たとえるなら舞踊のごとく、具現化された形そのものに意義が見出される。無論、リフレインがもつのは、音という身体性である。「ああ、愛よ ああ、愛よ・・・」のリフレインも、そのようにして「聴く」よりほかない。
同時に、ここで「愛」が、人間の心によって所有され生み出されるものではなく、自らエネルギーをもつ別個の生命体のように捉えられるのも興味深い。
リフレインの第四のはたらきとして、リフレインの「声」の次元が挙げられる。詩には語り手である「わたし」の一人称の声がある。一方で、「わたし」を一切表出させない語り手の、語りの声がある。また、登場する事物・人間たちの直に語る「声」がある。そして、これらの詩の語りの次元の外から響いてくる「うた(唄/謡)」として、リフレインはくり返される。それは、語りの意思とは別個のところから発せられる、もうひとつの「声」である。この「声」のはなしは、また、次回に。
*アフマド・シャームルー「内なる寒さ」(作:1970年代) は、『ミて』に訳出。のち、『現代イラン詩集』(新・世界現代詩文庫8)土曜美術社出版販売2009にも収録。
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