イランの首都テヘランでホセイン・アーブケナールに初めて会ったのは、日系アメリカ人記者ロクサーナ・サーベリーが拘束中のテヘランの刑務所でハンガーストライキを始めた、ちょうど翌日のことだった。アーブケナールは、バフマン・ゴバディ監督、前述のサーベリーに次ぐ、映画『ペルシア猫を誰も知らない』(2010年8月に日本公開)のもうひとりの共同制作者で、脚本執筆を担当した若手実力派の小説家である。
2009年カンヌ映画祭で、「ある視点」賞を受賞した同映画作品は、「西洋的な」音楽活動の一切と女性が人前で歌うことを禁じるイスラーム政権下のイランで、地下活動を余儀なくされる実在のミュージシャンたちを描いたドキュメンタリーである。
映画の核となるのは、彼らの音楽活動の現実であるが、随所に用いられるイラン発のアングラ・ミュージックは、ポップもロックもラップもありで、その力強さは、聴く者の心を深奥から揺さぶる。イラン国内での公開は「100%ありえない」という同作品の中で、躍動的な音とカメラワークによって繰り出される現代テヘランの映像は、「イスラーム国家」のベールの下に隠された巨大都市の脈動そのものであり、我々が思い描く「イラン」、ひいては「中東」のイメージがいかにステレオタイプなものかを思い知らせてくれる。
映画に登場するミュージシャンたちは、いずれも「本物」(したがって俳優としては「素人」)であるが、名優ハーメド・ベフダード演じる「便利屋ナーデル」は、ミュージシャンたちの偽造パスポートの調達や地下コンサートのセッティングを一手に引き受けながら、ストーリーの進行役を担っている。彼は極めて「イラン的な」人物像だ。緩急自在の頭の回転と、ウィットに富んだユーモア、誰にもひるまない強気な姿勢があれば、法や規則なんていくらでも曲げられるのである。ペルシア語では、字幕のたっぷり三倍はしゃべており、だじゃれや下品なスラングも軽妙な韻を踏みながら、ポンポンと飛び出してくる。
ホセイン・アーブケナール
(1967年、テヘラン生まれ)
ナーデルのセリフ回しは、アーブケナールの小説技法との比較という点でも、極めて興味深い。彼はこれまでに二冊の短篇小説集と中篇小説『アンディーシュマク駅の階段のサソリ~もしくは、列車から血が滴っている!~』(2007年)を出版している。
アーブケナールの小説を読んで、まず、感じるのは、言葉の軽妙さと作品空間の軽やかさである。彼の前々世代のイランの小説家たちは、サルトルのアンガージュマン(文学の政治参加)や社会主義リアリズムを一緒くたに呑み込んだ義務感と使命感を、十字架のように背負っていた。彼らの言葉と作品には、21世紀を生きる我々から見れば、不必要なまでに重苦しい空気がつねにつきまとう。アーブケナールの言葉には、その「重さ」がない。大衆を導き、社会を変革せんとする、かつての知識人文学者たちの不遜さがない。
小説『アンディーシュマク駅の階段のサソリ~もしくは、列車から血が滴っている!~』ペルシア語版。近日中に、フランス語訳も出版される。
イラン・イラク戦争の戦線から帰還する兵士の過酷な旅と幾重にも抱えた精神的倒錯とを描いた同作品は、イラン国内の主要文学賞をトリプル受賞しながら、「反戦」を理由に当局から発禁処分とされた(発禁となったのは第2版)。とはいえ、イランでは、発禁と「サンスール」(検閲による問題部分の「削除」)は日常茶飯事である。ゴバディー監督や『ペルシア猫』に登場したミュージシャンらが出国した後のイランで、アーブケナールは家族とともに日常生活を送り、従来と同様に創作活動や講演活動を続けている。この夏には、件の発禁小説のフランス語訳出版のためにパリへ旅した。
発禁とはいえ、『アンディーシュマク駅の階段のサソリ』はいわゆる政治小説というわけではない。そもそも彼は、政治活動とは無縁であり、短篇の名手と呼ぶにふさわしい生粋の小説家だ。アーブケナールの筆致は、ミニマリズムを思わせもするが、簡潔で短い文章の連なりからは、アップテンポなリズムが溢れてくる。その軽妙さゆえに、生きたテヘランの、人間たちの躍動感に遅れをとることがない。何より、彼の書く、会話体のリズムは絶品だ。
上記作品では、主人公の兵士モルテザーが戦線から帰還する過酷な旅路に、彼の脳裏に去来する、戦線での戦友たちとの時間や子供時代の記憶、眩しい輝きを放つ女たちへの夢想などが折り重なりながら描かれる。主人公は兵役を終え、戦線からイラク国境の町アンディーシュマクへと向かう。ここからテヘランへの列車に乗るのだ。
道中は疲弊しきったボロくずのごとき兵士らで溢れ、逃亡兵狩りの強者たちが闊歩し、捕縛した兵士を「積み荷」にしたトラックが行き交う。そこは、敵の襲来のみならず味方からの砲撃にさえ晒される無法地帯だ。「死」が無数の石ころのようにころがっている。
主人公モルテザーは、奇蹟のような幸運な巡り合わせから、アンディーシュマクまで運んでくれるというジープに乗り込む。町と戦線とを往復し続けるジープには、まともなフロントガラスもドアもない。車に群がり鈴なりになった兵士らを、ひとりまたひとりと振り落としながら、車は走る。運よくシートに陣取った兵士も、そっと閉じた目を二度と開かない。運転手はそれを闇の中に蹴落とし、車をひた走らせる。その運転手も休息した茶屋で、水煙草のパイプに血をにじませたまま、二度と立ち上がることはなかった。モルテザーは歩いてアンディーシュマクを目指す。
主人公モルテザーは、自分ひとりの旅路に、戦線で死んだ幼なじみスィヤー(スィヤーヴァシュ)を伴っている。「行くぞ、スィヤー!」「もうすぐだ、スィヤー!」--死者に語りかけながら歩き続け、ようやく辿りついたアンディーシュマクは、イラク軍の化学兵器で汚染されており、帰還兵らのほかには人影もない。思いがけず出会った戦友に案内された駅の一角の部屋の入口には、所狭しとブーツが並び、戦死したはずの将校と兵士らで溢れていた。現実と幻覚とが入り混じる中で到着した列車は、化学攻撃でやられた負傷兵たちを満載していた。
モルテザーは、テヘランへ向かうこの列車に、死んだスィヤーをそっと乗せてやる。そして、死んだ友の故郷への旅路を、家で待つ優しい母の涙を、懐かしい家を夢想する。最後に、逃亡兵狩りへの怯えと無力感・脱力感とともに、ひとりアンディーシュマク駅でうずくまり、不意の尋問に「ぼ、ぼくは、殉教(戦死)しました!」と叫ぶ主人公の「生」の無残な、しかし、紛うことのない切れ端が、私たちに残されるのだ。
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