編集人:新井高子Webエッセイ


10月のエッセイ

  • あんみつ小論 ——粉のお話(3)

新井高子

白玉粉を使って、じぶんでお団子を作ったことはないのですが、ジゴクノカマップタに続き、今回も甘いもののお話です。

「あんみつ」が大好物です。支度が家にあるときは、帰宅の電車に揺られながら、その姿ばかり想っています。とりわけ好きなのが、フルーツあんみつ。と言っても、缶詰の果物が嫌いなので、生フルーツ限定で。初夏にはイチジク、ライチ、さくらんぼ。夏から初秋は桃やスイカ、巨峰。秋の盛りは柿、洋梨。晩秋には干し柿、林檎、栗、クルミ。いろいろ試してみましたが、柑橘類は、餡とちょっとはじき合ってしまうみたい。しっとりした甘み、ねっとりした甘み、そして、ほのかな酸味がよく合うと思います。
 あんこや赤えんどう豆は気に入ったお店で買っていますが、時々は、汗をかきながら自分でも煮ます。あんみつにはダンゼン粒あん、と思っていて、粒だと漉す必要がないので、何とか作りとおせます。蜜は黒。とくに、フルーツあんみつは、餡とそれぞれの果物と、甘みの質の違いが嬉しいので(ポエティックと言ってもいい微妙さです)、主張のある黒蜜の方が、一つ一つをむしろ引き立ててくれます。白蜜だと馴染みが良すぎて、何だか味が均一になってしまうよう。寒天は、粉末を溶いて作っているけれど、天草を直接煮出したものがたまに買えると、磯の香りがしてなお美味。

こんな美味しい食べ物を考えたのは、どんな人なのでしょう。塩茹でした豆を入れるなんて、天才。甘味処でお汁粉を頼むと、小皿にお新香が付いてきたりするけれど、そのセンスが一つのお椀に盛られているんですから。最後の隠し味が、コロコロのお豆に拡大されている、と言ってもいいです。味覚がぐっと立体的になります。寒天もまた不思議。これがなかったら、くどくて食べ飽きちゃうかもしれない。加減よろしくそれぞれを結び付けているんですね、半透明のサイコロが。あぁ、あんみつほどデリケートで、シンフォニーなデザートを、誰が、どんなふうに考えたのでしょうか。

というわけで、図書館へ行きました。
 百科事典コーナーで引いてみたけれど、ありません。それで、試しに「みつ豆」で探すと、平凡社の筆者はつまらない。小学館の方がずっと美味しそう。項目は五十音順に並んでいますから、めくったページの、「ミツマタ蓮華岳」(北アルプス)と「ミツミネ山」(秩父山地)の谷間に、ちょこんと「ミツマメ」が記されている絵姿は、何ともケナゲでしたが、成り立ちはよくわかりませんでした。
 それで、ネットで「あんみつ、歴史」を検索してみると、ありました。それは、「みつ豆」から生まれたと書かれていました。餡は、クリームや白玉と同じでトッピングなんだ、と(だから、百科事典になかったのですね……)。びっくりしました。ワサビ抜きのお鮨のような、とり敢えずの引き算だと、みつ豆を思い込んでいたので。

それは、西洋文化がようやく身近になった明治30年代、浅草の「舟和」が、大人の甘味を作ろうと、モダンな銀食器に銀のスプーンを添えて出したのが始まりだそうです。シャンデリアが吊られ、観葉植物が飾られ、純白のエプロンをした女給さんに運ばれて、ミルクホールならぬ「みつ豆ホール」と、その洋風喫茶は名付けられていたそうです。そして、昭和に入った1930年、銀座の「若松」が、自慢の餡を活かそうと思い付いたのが、それをのせた「あんみつ」で、あっという間に広まった、と記されていました。後追いなんですね、餡は…。あんこ好き、あんこ中心主義の鼻先は、クニャッと曲げられてしまいました。

が、それだけではないのです。寒天を使う「ところてん」は、江戸時代にすでに庶民の夏の風物詩になっていましたが、その末期、しん粉細工の小舟の中に赤えんどう豆を盛って、蜜をかけて食べる素朴なお菓子ができていたのだそうです(試しに、塩豆だけを黒蜜で食べてみましたが、なかなかです)。それが、「みつ豆」のオリジンだ、と書かれていました。
 えッ、と思いました。甘みのバランスだけでは飽き足らない天才が、最後の最後に添えた隠し味が、あの赤黒い豆だと信じていたのですから。石頭を叩かれてしまいました。ながーい思い込みの時間が、ぐるぐる逆回転していきました。
 そしてほどかれて、ちょっと冷静になってみると、これは、創作の素晴らしき過程、ポイエーシスなるものの一つの典型と言っていいんじゃないでしょうか(イキナリですが……)。「あんみつ」のような、妙なる甘みの芸術品は、「生まれる」ということをしみじみ教えてくれる気がするのです。

詩もそうですが、油絵などを思い浮かべるとわかりやすいと思います。絵の具を塗り重ねるということを、主な技法の一つにしている油彩画では、作品の面白さは、オモテにある色や形だけでなくて、パイ生地のように秘められた、幾層もの「下絵」たちが支えています(もちろん、重ねることを拒否する画風もありますが、今日のところは退(の)けておきます)。

何とも言えない深み、色や形の立体感というのは、ひねって最後に添えるより、初めにあったもの、プロセスの中にあったものが、表層へ、じわじわと滲み出ることで醸されていく…。つまり、ポイエーシスとは、重なっていく佇まいソノモノ、と言っていいような…。
 でも、大天才というのはもちろんいるし、幸運の天使の計らいで、スゴイ作品が瞬く間にできてしまうことだってあるでしょう。ただ、「スゴイ」のは、「一瞬でできる」ということじゃなくて、「一瞬で重ねられる」、その稀れな集中力の方なんだろうと思います。

「あんみつ」の中の赤えんどう豆や寒天は、オリジン、つまり下絵の中にあったからこそ、存在できている気がします。そして、西洋など異文化との出会いもあって…、だから複雑なんでしょう。ノッケから一遍に発明しようとしたら、パフェのような甘いもの尽くししか、思い付かないのではありませんか。
 あまりにシンフォニカルな、あんみつを味わいながら、「重ねる」ことを想っています。いえいえ、ウソです。食べた後と食べる前、あいだの時間のもの欲しさが、考えさせているまでです。
 小学館の百科事典によると、「あんみつ」「みつ豆」は夏の季語だそうですよ。「蜜豆の寒天の稜(かど)の涼しさよ」(山口青邨)。

(詩誌『交野が原』第65号初出改稿)