こんにちは。「ミて・プレス」のウェブサイトが、モグラ・デザインの協力のもと、立ち上がりました。この「Webエッセイ」には、紙媒体の詩誌「ミて」とは別に、言葉、映画、美術、旅行などに関するエッセイを、「ミて」常連メンバーたちがリレー式で綴っていきます。月ごとに更新しますので、覗いてやってください。 第1号は、編集人のわたくし、新井が担当します。
8月、はじめて遠野へ足を伸ばした。もうずいぶん前から訪ねてみたいと思っていたが、機会に恵まれず‥‥、いえ、じつは、フォークロアの宝箱のようなイメージがむしろ重たくて、敬遠していたのだった。
ほんの数日だが、レンタサイクルして20キロ以上駆けめぐった。おかげで、UVケアもむなしく日焼けしたり、驟雨にビショ濡れになったり‥‥。史跡のほか、資料館などは虱つぶしに見て、大ざっぱだけれど、土地の立ち姿みたいなものを感じることができた。
ここは閉ざされた山村だったから、口伝えの伝説や物語が豊かなんだと、それまで思っていたが(というより、考えなしにそう受け流していたにすぎないのだが‥‥)、全くおろかな勉強不足だった。遠野は、お城のある盛岡と港町・釜石をつなぐ交通の要所なのだった。近世から、すでに旅籠がたち並ぶ「町場」。あらためて、柳田國男の「遠野物語」冒頭を読みかえすと、「山奥には珍しき繁華の地なり」とあるではないか。武士や商人だけでなく、比丘尼やら山伏やら琵琶語りやらが絶えず行き交って、そんな、風のような人間たちが語り物や絵草紙を運んできた。それがしだいに根付いて、いわゆる遠野の昔話として、風の吹きだまりのように渦巻いていったらしい。
思えば、代表的な「おしらさま」だって、原典を見つけようとするなら、中国の「捜神記」と言っていいのだろうし、「座敷わらし」もここだけにいるわけではない。つまり、遠野は、精巧な「翻訳空間」と考えていいんだろう。そもそもの語り部たちは、旅人や文字を知る者たちの言葉を、遠野の話し言葉に、つぎつぎ移しかえていったわけだ。つまり、トランスレーターなんだ。一人一人に、そんな自覚はなかったとしても‥‥。「山崎の権十郎」とか「山口の孫左衛門」とか、地名や人名をふんだんに入れて、お話を土地に引きつけ、伝説にしてしまうフェーズ変換も、見事。
とはいうものの、優れた訳者が詩人以上の造語力を持っているのにも似て、遠野という場所じたいに、突き上がるものを感じたのも事実だ。
各駅停車の釜石線に揺られて遠野駅で下車し、ようやく旅館に着くと、晩ご飯までまだ少し間がある。まず宿の周りを‥‥と、ポケットにカメラだけ入れて、散歩をはじめた夕暮れどき、畑まじりの住宅風景の中に、こんもり大木が立っているのに惹かれた。行ってみると、そこは祠(ほこら)だった。
親切なことに掲示板があって、「会下の十王様」と書いてある。二畳ほどのささやかな社屋の中を、覗き穴から拝むと、十王(冥府で死者を裁くという王)の古びた木像が、いくつも並んでいた。あとで昔話の冊子を読んで知ったのだが、この仏像たちは、かつて、病などで田んぼの仕事ができない村人に代わって、田植えをしたという伝説がある。だが、私が惹き付けられたのは、むしろ、その左側で繁っている桂の巨木の方なのだ。道に面した小さな鳥居をくぐると、「山神」「三宝荒神」と彫られた石が立っていた。立派なご神木だな‥‥と見上げながら、直径1メートル半はある根元の周りをたどって、裏側へ出て、オオッとした。
木のすぐ脇、いえ、張り出した桂の根と根の間に、8つほどの小さな石塔が挟まれて立っているではないか。巨木にじわじわ飲み込まれようとしているかのように、幹にめり込んで、半ば木の一部と化している。出会ったことのない石の姿だ。何の神様なのだろう、いつからここにあるのだろうか‥‥。年ごとに太っていく幹に押されて、ひしゃげた石塔群。そして、そこから、数歩はなれたところにも、弧を描くように、つまりストーン・サークルのような形で、いくつも石塔が並んでいる。
そして、それらすべてに、1、2本ずつ、真ッ赤なグラジオーラスが供えられている。じかに石にたて掛けたり、地べたに寝そべらせたりのお供えなので、まるで花時計の針のよう。そのうえ、花入れのないこの花々は、もう萎びはじめていて、だからこそ、いっそう深い赤色を、腰をかがめて覗き込みながら、‥‥そうか、ほんの数日前は盆送りだった、とようやく気付いた。この裏手の石たちは、神様ではなく、お墓なんだ、と。どれも風雨に浸食されて、なかなか読みとれないのだが、かろうじて判読できた彫り文字は、やはり戒名だった。
だが、一族による先祖代々のお墓なら、代がわりするごとに石が新しくなるはずなのに、十つ以上あるこれらの石塔は、どれも似たような古び方をしている。もし、一遍に建ったのだとしたら、ここは、特別な、いえ、大変な現場だったのか‥‥。皺枯れつつある花の色と夕暮れの薄明かりにも引っ張られ、フッと、凄惨な妄想がよぎりはした。が、じつは、不思議と怖くならなかった。妄想が長つづきしなかったのは、何とも、清い空気がそこにあったから。
なすがまま、ほんの少しずつ、少しずつ、太った木へ傾いたり、雨におもてを削られたりしてきた石。そんな途方もなくゆったりした時間の中で、埋められた者たちは、とっくに土に還ったはずだ。おそらく自分の庭か畑から切ってきたにちがいないグラジオーラスを、束で抱えて霊送りした人にとっても、死者たちの俗名は、もう頭から消えているんじゃないか。
仏教の教えとは違うかもしれないが、文字通り、「野放し」な成仏のかたちを、私は想い描きはじめていた。戒名が読めないほど、風雨にこすられた墓とは、もう神様の石と思ってしまっていいんじゃないか。
それでも、お盆の送り迎えは、えんえんとつづいている。この石を忘れない人、口伝えする人がいるわけだ。遠野が昔話の風だまりになったのは、たぐり寄せた言葉たちを手放さない握力が、こんなふうにあるからなんだろう。
翌日、自転車を走らせると、赤や薄紅のグラジオーラスが、あちこちの庭先にすっくと立って、夏の光を浴びていた。
P.S.
民主党へ政権交代が起こった。急な変化は期待できないにしても、世の中は変えられるということが「実感」になるといい。官僚組織だけでなく、会社も学校も、たぶん詩の世界も、システムが固まりすぎている。これまでいくつかの「改革」を職場などで経験したが、結局は、いっそうの制度強化を促すものばかり。それは、働くこと、学ぶことをウソくさくしてしまう。が、システムとは社長でも学長でもない。目には見えない。「空気を読む」という風潮に、そろそろ飽きが来てもいいのではないか。
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