編集人:新井高子書評


『現代イラン詩集』書評

 

(鈴木珠里、前田君江、中村菜穂、ファルズィン・ファルド編訳、土曜美術社出版販売、2009年)

 

鵜戸 聡(アラブ=ベルベル文学)


『現代イラン詩集』

 昔、私がフランスの学生寮に住んでいた頃、共同キッチンで水筒を手にしたおじさんが困った顔をしてまごついていたことがある。フランス語が通じないので英語で事情を聞いてみると、「お茶が飲みたいのにやかんが無い、蛇口から出るお湯はぬるい」とのこと。私の電気ケトルでお湯を沸かしてやりながらおしゃべりしていたのだが、イランの物理学者でゲストルームに数日滞在しているという。この先生はハーフェズの詩集を旅先にまで携えてきて、毎晩寝る前に数篇を読んでいるのだとか。噂に聞くイラン人の古典詩とお茶への愛に接してとても愉快だったことを今も憶えている。
 流麗な古典詩の伝統で知られるペルシア文学が現代詩の領野においてどのような発展を遂げたのか、それを初めて日本の読者に示したのが本書である。韻律の桎梏から逃れ果敢に新体詩を創りだしたニーマー、その衣鉢を継ぐシャームルー、フォルーグ、セペフリーなどなど、現代イランを代表する詩人たちの作品が並び、百年の詩的冒険が読者の眼前に展開される。綺羅星ような詩をいくつも廻るめくるめく体験、その旅路を導くベアトリーチェ役を訳者が務め、巻末に詳細な解説を付して読者が道を見失わぬよう配慮してある。
 巻頭を飾るのは新体詩のマニフェストとされるニーマーの「アフサーネ」。形式上の革新に意義ある作品とされるが、その内容もフランス・ロマン主義の単なる模倣ではない。アラブ人以上に激情家のイラン人にとってロマン派の大仰で情緒的な表現は馴染みがよいのかもしれないが、「恋する者」と「狂気」という伝統的なモチーフがフランス詩の伝統に巧みに織り込まれて独特の詩境を生み出している。また、シャームルーが「ああ 愛よ ああ 愛よ/お前の青い顔が見えない」と嘆き、セペフリーが「愛が誠実の羽くらい蒼い」と歌うとき、ペルシア語やアラビア語における「愛」や「心」という語の重みを思わざるを得ない。頻出するこれらの語は単なる抽象概念ではなく、濃密な具象性をもって立ち現れてくるではないか。彼ら新しい詩人たちがいかにペルシア語という伝統を糧にしているのかが知れようというものだ。
 さらに全体を通読してすぐ気付かされるのは二人称代名詞「お前」の多用である。当然、そこには一人称の存在が対になって浮上する。二人の人間が向き合う狭間で言葉が生じていくさまは、頻出する光と闇の詩想と相俟って、ペルシア詩の弁証法的世界観を示しているかのようだ。セペフリーが「明るさ、わたし、花、水」において日常の小さな事物を詩の対象として選び取っていくときにも、「わたし」は幾度も現れる。「わたし」で始まる短文が反復していき、ひとつのリズムを生み出していくのだ。これはアラブ現代詩にも言えることだが、韻律を離れ、伝統的な詩語をこえて詩想を多様化させたとき、詩の音楽性を反復が担うことになる。特定の語や文型が反復されるリズムに読者は安心して身を委ね、小さな出来事が少しずつ進行していくのを眺めるのである。その点で幾つかの現代詩はジャック・プレヴェール的な様相を呈していよう。
 逆にナーデルプールの「彫刻師」には伝統と積極的に向き合おうとする姿勢が窺われる。四行詩という形式や造物主を工匠に喩えるところは日本の読者にもオマル・ハイヤームのような古典を想起させるし(但しルバーイーとは韻律が異なり、この比喩もより広汎に見られるとのこと)、「沐浴を誘うそなたの体躯のうえから/月光の泡立つ葡萄酒を降り注いだ」という美しいヴィジョンは、古代ギリシアからアラブ・ペルシアの文学伝統に綿々と受け継がれてきた灌奠の詩想に拠るものだ(その果てにあるのがヴァレリーの「虚無への供物」である)。だが同時に、「ある晩そなたへの愛の憤激が私を狂わせたとき/影は見るだろう、私がそなたをも叩き壊すのを!」と締めくくられるとき、近代小説の祖たるサーデク・ヘダーヤトを思わせるような暗い情念の奔流がこの詩を新しいものに作りなしていることに気付かされる。
 本書に描き出された詩的形象の数々は、日本の読者の眼には奇異に映ることもあるだろう。しかし、私たちの知らぬ喩がこれほど世界に満ちているのならば、それは詩を読むものにとっては僥倖である。