編集人:新井高子Webエッセイ


11月のエッセイ


  • 「サヨナラ」は言わない

北野健治

 この時季の種子島は微妙だ。紅葉やキノコ、栗、柿といった秋の風物詩がない。とは言え、それなりに景色の変化はある。実感としては、「彩度」ではなく「明度」の世界で。空の青さと山の緑が「明度」の+深みを増す。それに応じるように夜空の闇の深さも。
だから明かりの少ない種子島のこの時季の夜は、夏にもまして星のきらめきが間近に迫る。最近ではハロウィンが島の夜でもにぎやかだが、自分としてはこの時季のイベントと言えばやはり聖夜だ。


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 件のバーで知り合ったその娘は、色白な顔に黒いセミロングの髪が印象的で、微笑むとできる片えくぼがとても愛らしかった。サックス奏者のデイヴィッド・サンボーンが好きで、彼のコンサートにも一緒に出かけた。彼女が僕に好意を持ってくれているとは感じていたけれど、友だちの線を超えることはなかった。
 ずるいけど、その頃僕にはほかにもガールフレンドがいた。正直に言えば、もう一人のガールフレンドの方が少し関係は深かった。でも、どっちつかずの状況が続いていた。
 ネットで調べてみたら、今でも続いているようだけど、当時のクリスマス時期には、恵比寿ガーデンプレイスのクリスマス・イルミネーションが話題になった。表参道のイルミネーションと双璧で、当時のデートコースとしては王道だった。
 ちょうどその時期に、ガーデンプレイス内のホールで坂本龍一のピアノ・コンサートがあった。チケットを入手した僕は、もう一人の彼女を誘った。OKをもらっていたのが、直前になって急に彼女のスケジュールが合わなくなった。
 チケットを無駄にするのもなんだし→それ以上に坂本龍一のピアノの生演奏を聴きたい→でも、ひとりではなぁ→という展開で、音楽好きな黒髪の彼女のことを思い出した。早速、声をかける。彼女は素直に喜んだ。当日、会場の前で会う約束をした。
 約束の時間に余裕をもって、待ち合わせ場所に向かった。そこには、もう彼女が待っている。全体に黒でまとめたシックな装いで、とてもキュートだった。まさにクリスマスのデートのような。彼女を目にした僕は、うれしさと戸惑いがまぜこぜなになった不思議な感覚。ドキドキしながら一緒に会場に入った。
 クリスマス間近のピアノ・コンサートということで、会場内にはカップルが多い。席についてほどなくして場内が暗くなる。坂本龍一がスポットライトに浮かび上がり、コンサートが始まった。
 コンサートの中盤、彼にしては珍しく観客とのやり取りがある。リクエストに応じて、数曲ほど演奏する。その一曲に僕の好きな『Amore』(Ario Lindsay・Roger Trilling・Ryuichi Sakamoto, Vocal:Ryuichi Sakamoto)があった。出だしをつま弾き、「こんな感じかな」と途中でやめたけれど。
 演奏のクライマックスは、やはりみんが期待していた『Merry Christmas Mr.Lawrence』(Ryuichi Sakamoto)。聞き覚えのあるイントロが流れ出す。会場は波を打ったような静けさ。そのとき僕は彼女の横顔を盗み見した。闇の中、色白の顔が青く透き通るように浮かび上がる。それは神々しくもあった。そう感じた瞬間、彼女が顔を僕に向けた。その瞳は、僕をとらえる。じっと見つめた彼女は静かにほほ笑んだ――。
 僕は一瞬、息が詰まった。続いて胸の奥底が締め付けられるような苦しさを感じる。
 コンサートが終わり、二人で食事に行く前に、ガーデンプレイス内を散歩した。クリスタルで飾られたクリスマスツリーの前で、身体全体から愉しさを醸し出している彼女を目にし、僕はますます困惑した。
 ツリーの前で茫然とたたずむ僕の横に彼女が立つ。僕の手をそっと温かい小さな手が包む。そのまま僕はじっとしているしか術はなかった。
 予約したレストランに向かう途中、彼女は家族の話をしてくれた。おじいさんと一緒に暮らしていること。お父さんが公務員であること。自分と双子の弟がいること。エトセトラ、エトセトラ。一所懸命話をしてくれる彼女に、僕は相槌をうつだけだった。
 それからのことは、よく覚えていない。気が付いたら、電車の改札口で彼女を見送っていた。彼女の後姿を見届け、僕はいつものように独りバーに向かった。


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 それを最後に僕は彼女と会うことはなかった。彼女が連絡を待っているのは分かっていた。けれど彼女から連絡がないことをいいことに、時が過ぎるのにまかせた。「ずるい」と自分でも思った。でも、これ以上、彼女を貶めることはやめようと決めていた。
 このことをきっかけに、僕は自分の寂しさに人を巻き込むようなことだけはしまいと心に誓った。それを守り続けてこられたかどうか自信のほどはないけれど。でも、今でもその誓いは変わらない。
 思えば、自分の弱さやずるさで、ずいぶん人を傷つけてきた。それ以上に周りの人に支えられてきた。時おり懐かしい顔を思い出すことがある。彼ら、彼女らに育てられて、ここまで来られたという感慨。
 先に触れた坂本龍一の『Amore』の歌詞は、「Good morning」「Good evening」「Who are you?」のフレーズが、組み合わせを変えながら展開する。ただ一度だけ「Who are you?」というフレーズを差し挟んで。
 僕は、この「you」を「I」にすり替えて、ずっと問い続けてきたような気がする。それは、これからも続く。そしてその途上、出会った・出会う人たちに。「サヨナラ」は言わない、「アリガトウ」を言おう。


近づく冬の気配を孕む明度の深みを増した種子島