編集人:新井高子Webエッセイ


7月のエッセイ

  • ひまわりの背中

北野健治

このエッセイが更新される頃は、息子も夏休みに入っている。もう、そうなると、ヴァケーション気分の彼とは違い、僕のほうは、帰省の心積もりに追われる。島なので、カーフェリーの予約だとか、生家への行き帰りの途中の宿の手配だとか。今年も、間もなくだ。
 帰省で言えば、いつも気が重くなるのは、生家を後にするとき。現在、生家には、80歳過ぎの母が独りで住んでいる。「シングル・マザー」という言葉が定着する、はるか昔に女手ひとつで、僕と弟を育て上げてくれた。
 彼女の現在の楽しみのひとつは、盆・正月に会える孫たちの笑顔。楽しいときは、あっという間に過ぎるというのは本当で、つかの間の再会の後、すぐに帰宅の時が来る。
 独身のときは島外の最寄りのJR駅まで向かうバスを、家族連れになった現在はミニバンを、その姿が見えなくなるまで、母は手を振り、見送ってくれる。
 今は、運転席にいるので、振り返ることはできない。独身の頃は、バスの一番後ろの席に座り、僕も母の姿が見えなくなるまで振り返っていた。
 母の姿が見えなくなったのを確認して、座る向きを直す。それなのに、背中に感じる視線が、妙にやるせなかった。その想いは、今も同じ。
 「背中」。この言葉には、いろいろなイメージがまとう。はかなさや哀歓や、どちらかというと、しんみりとした印象。
 僕が、かつて携わっていたいけばなの機関誌では、花の後ろ=背中を見せるといういけ方は、イレギュラーだった。花の背中。その響きから、ある友達のことを、僕は思い浮かべる。

※              ※

大阪から東京へ転職した当時の僕は、人間関係から生活環境まで、すべてが一新の状態だった。生活環境のほうは、とりあえず自分ひとりで対処できるとして、職場の、それもいけばなという独特な環境の中で、人とのつながりをつくるのは、なかなかしんどいものがあった。
 その頃、彼女は、故・勅使河原宏家元のいけばな制作をサポートする、アトリエ・スタッフの若手の中心メンバーとして活躍していた。
 右も左もわからず、初めてスタッフのアトリエに挨拶に行ったときのことを、今でも覚えている。忙しげに立ち回っているメンバーたち。彼らの中で、誰に、どう挨拶し、振る舞えばいいのかわからずに、所在投げに立ち尽くしていた僕。
途方にくれていた僕に、最初に話しかけてきてくれたのが、彼女だった。
 そのとき、彼女のほうが、僕よりも1歳上だということがわかった。それをきっかけに、年齢がほぼ一緒という気安さもあって、何かと気にかけてくれるようになった。今、考えると、彼女も生家のある岩手から転職して、単身で上京してきたという立場も似ていたからかもしれない。
 スタッフになる前の彼女は、地元の放送局でアナウンサーをしていた。そういうことも関係しているのか、華があって、明るくて、元気で、花にたとえると、「ひまわり」のような存在だった。  一般に、男と女の友情は成り立たない、といわれる。まぁ、それほど的外れではない気はする。でも、彼女との場合は違う。好意は持っていたけれど、恋愛感情には発展しない。なぜなら互いの好みじゃあないし、何よりも、お互いに付き合っている異性(パートナー)がいることを、そのときどきに知っていたから。
 でも、恋愛の話をよくした、という記憶はない。それよりも、仕事や将来の夢を語っていたことの印象のほうが強い。暗黙のうちに、お互いが地方出身者として、いつまで「ここ(東京)」にいるのかという決心も含めて。
 件のバーでも、よく一緒に飲んだ。
 僕が、いけばなの機関誌を辞めると決めた後に、飲んだ日のこと。普段より速いペースで飲んだ二人は、いつものようにとりとめのない話をしていた。
 何がきっかけだったのかは、覚えていない。急にまじめな顔をした彼女が、僕のほうを向いて言った。

「北野とは、一生、友達だからね」

 そう言うと、いつもの酔っ払いのフニャフニャした顔になって、笑った。
 それから東京で、僕は何度か転職した。その都度、思い出して連絡すると、都合がつく限り、付き合ってくれた。それは、僕が東京を離れてからも。
 あるとき、彼女が飲み会の帰りに、道で倒れたという話を友達から伝え聞いた。僕は、久しぶりに彼女に電話した。

「そうなのよ。急に具合が悪くなって。後輩たちが一緒で、すぐに救急車を呼んでくれたから、大事に至らなかったけど。
 もう退院したから、大丈夫。
 それよりも、こっちに来たときには、必ず連絡をちょうだい。また、一緒に飲もうよ」

 明るい、いつもの彼女の声が、携帯電話の向こうから響いてきた。僕は、安心した。
 それからしばらくして、体調を崩した彼女が、生家のある岩手に帰った、という噂を聞いた。真偽を確かめるために、友人の一人に連絡を取ると、果たして本当だった。それも難病らしいという話もついて。
気後れした僕は、ずいぶんの間、連絡が取れなかった。それでもある日、思い切って連絡してみた。

「北野? 元気?」

 彼女のいつもの声だった。それから四方山話をして、電話を切った。
 そして、去年の正月。年賀状が届いた。
「そのうち、種子島に遊びに行きます」
 元気そうな文面に、僕は喜んだ。
 はずなのに、その5月。友人から電話があった。

「――さんが、亡くなったって」

 思わず僕は絶句した。
 聞けば、その年の2月に、東京の本部で開催された講習会に、彼女は講師として参加したらしい。そのときには、もう相当体調が思わしくなかったらしく、東京駅と本部の往復は、タクシーを利用したとのこと。それでも、講師は、きちんと務め上げて、帰省したという。
 いつもひたむきで、決して人前では弱音を吐かなかった彼女。まだ、島に遊びに来るという約束は、果たしてないじゃあないか。ずるいよ。

ひまわりの背中は、その大きく重い花を支えるには、少し心もとない。

種子島の青い空に、ひまわりが映える。

それから、ひまわりを目にするとき、彼女の笑顔を思い出すことがある。そして、思う。彼女が、あんなにまでも、ひたむきだった理由を。
 ひまわりは、その花をいつもお日さまに向け続けるよう、花の位置を変えて咲き続けることから、その名前がついたということを聞いたことがある。ならば、その背中には、決して日は当たらない。
 ねえ、がんばりすぎることなんか、ないんだよ。独りで何もかも背負い込む必要はないんだから。そう言ってあげたかった。ひまわりの、その背中を見ながら、今頃やっと、そのことに気づいた僕がいる。