書かないと決めたことがある。というよりも、書けないというほうが正しい。いつか書ける日まで、と心に期していたこと。それを覆す手紙が届いた。
差出人は、妹のように可愛がっていた元バーテンダー(今も、現役か)の彼女。彼女と知り合ったのは、今から20年近くも前の件のバーでのこと。まだハタチになるかならないかの彼女が、新人のバーテンダーとして週の何日かを、日中の仕事を終えた後に入るようになったから。
旧姓が、コメディアンの片岡鶴太郎と同じだったこと。それからチャキチャキした下町の気持ちのいい振る舞いから、彼女が"鶴太郎"の愛称で、常連のメンバーたちに可愛がられるようになるまで、そんなに時間はかからなかった。
時代は、女性バーテンダーにスポットが当たり始めた頃。彼女も、日本バーテンダー協会の支部や地区大会に参加し、その熱心さに兄のような気持ちで、好ましく見守っていた。それは、ぼくだけではなく、周りのメンバーも同じだったはず。
そんな彼女が、実力のある、これまたメンバーに馴染みのバーテンダーと結ばれたのは、当然のような、みんなに祝福された出来事だった。それから早いもので、十年以上が経つ。
彼女のパートナーは、銀座の名店「BAR オーパ」のオーナー、大槻健二氏。押しも押されもせぬ日本を代表するバーテンダーで、いずれは協会を担って立つだろう人物だった。
彼との出会いも、彼女と同じ頃、同じバーで。その当時の彼は、ウィークデーは、いまではなくなってしまった銀座の有名なバーで、チーフとして働いていた。件のバーのマスターの弟のような存在として、時折、店に顔を出していた。その彼が、当時は日曜日が休みだった件のバーの一日マスターとして店を始めだした。
二歳年下ということもあり、世代的に近く、同世代の話題にことかかない彼と本格的に親しくなったのは、その頃からだ。男気があり、その一方で繊細な心配りが利き、後輩の面倒見がよくて、みんなに慕われる彼は、年下ながら憧れの人物だった。
そんな彼とどうしても仕事がしたくて、その頃勤めていた出版社の雑誌でカクテルのコラムの連載をお願いしたことがある。残念ながら、担当は同僚になったが、気持ちよく引き受けてくれた。
そうそう、もうその頃には独立していたんだっけ。今では門前仲町にもある「BAR オーパ」のまだ一店目の銀座店で、開店前に取材していたのを覚えている。同僚が、取材後に、試作したカクテルがおいしくて、ついそれを手始めに飲みすぎてしまって、と何度もうれしそうに愚痴をこぼしていた。
そのバーは、"オーセンティック"という言葉がぴったりの大人の空間。落ち着きと寛ぎのスペースだ。といっても、一見の客が立ち寄りがたい雰囲気ではなく、初めてでもどこか懐かしさを感じさせる。店は、オーナーを表すというのが、僕の持論(一般論か)。だが、まさに"彼自身"だ。
基本的に遊びのテリトリーが渋谷だった僕は、銀座に出向くことは、あまりなかった。それでも、たまに店に顔を出すと、常連のように対応してくれた。協会の世界大会にも出場したことのある名バーテンダーが、親しく会話してくれるのは、恐縮する一方で、秘かな僕の自慢でもあった。
ここまで彼のことについて、過去形で語ってきた。なぜなら、彼は、もういないから。7月9日永眠。享年47歳の若さで。その数ヶ月前、バー仲間から彼の体調が思わしくないとの連絡があった。それにしてもだ。
彼が元気な頃、いつか彼のことは書きたいと思っていた。でも、こんなかたちで触れるなんて、とても出来ないと考えていた。少なくとも心の整理がつくまでは。
※ ※
先日、東京出張の際、久しぶりに銀座の店にお邪魔した。以前と変わりなく、彼の立ち居振る舞いを感じさせて、店は営業していた。ノー・プロブレム。何も問題はなかった。ただ一つ、彼がそこに居ないことを除いては。
そして数日前、手紙が届いた。彼のパートナーであり、妹のように可愛がっていた彼女の簡潔で、短く、それでいて心のこもった文面に、喪失感の大きさが漂う。その追伸の一文が、僕にこれを書かせている。
「P.S. 写真を同封させていただきます。
本人がみんなに忘れないでほしいと言っていました。
(後略)」
大槻さん、妹よ、忘れるわけがないじゃあないか。僕らは、仲間だろう。おこがましいけど、僕は、そう思ってる。
しばらくの間は、うかがえないけど、そっちのバーに行ったときには、あの少しはにかんだような笑顔で迎えてよ。そしたら、いつものようにジン・リッキーをオーダーするから。それから語り残していた、こっちの四方山話でも、ゆっくりしようよ。それまでは、お代わり前の一杯で、しばらくは、こっちで粘っているから。
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