(北爪満喜『飛手の空、透ける街』思潮社、2010年)
阿部日奈子(詩人)
この詩集の魅力を伝えたくても、大袈裟な言葉は似合わない。押しつけがましさの正反対、野に咲く菫のような、やさしい美しさだ。急ぎ足の人は気づかず通り過ぎてしまうかもしれないが、屈託を抱えて俯きながら歩く者の目を、染みいるような青で慰めてくれる。
励まされるのでもなく、癒されるのでもなく、慰められるという心地。『飛手の空、透ける街』を読みながら、ずっとそれを感じていた。あなたも避けようのない別れをくぐっていらしたのですね、亡き人への想いを心中に抱きながら、しずかに日常を営み、こうして詩を書き続けていらっしゃる……そのことに私は慰められるのですよ、と伝えたくなった。
別れといっても、悲しみや嘆きが声高に詠われているわけではないので、何篇かの詩に切れ切れに埋め込まれた述懐から、御母堂の逝去を察することになる。「蜂蜜を持って 青空の下」は母を見舞う詩だが、病や死という影をまったく出さず、逆に童話風のやわらかい語り口で通すことにより、否認しつつ覚悟を固めてゆくような心の揺れが表されている。
みよこさんに買ってきて欲しいと頼まれた蜂蜜
蜂蜜が好きなのはくまだから(彼女はたまたま母で
彼女をくまということにしよう(いまはたまたま歩けない
子ぐまに届けるような気持ちで
運んでゆく
大ぐまになって
(割れないように (割れないように
[中略]
蜂蜜を運ぶくまには
いつしか
野原の向こうに昔の家と働くみよこさんが見えてくる
みよこさんは庭じゅうに花を植えてしまっては いつも草取りに追われてて
ミツバチ 飼えばよかったのに
巻頭の「月の瞳」は、眠りの足りない瞼で昼の月を眺める詩だ。寝不足は看病疲れのためなのかどうか、読者にはわからない。ただ、〈薄い今日〉という一語に、はっとする。
たくさんのふりをやってのけた
目の奥の濁った沼の上に
真昼の月をのぼらせる
さざ波立って震える沼は
月の瞳に照らされて
ゆっくりと
薄い今日を飲む
病気の日々は、病む本人にとっても看護人にとっても〈薄い今日〉の連なりだ。神経を研ぎ澄まして渡らざるをえず、それでも渡りきれずに、いつか破れるときが来るとわかっているので、辛さがつのる。別の一篇「表面張力、並べて」で、草にやどる円らな雨滴を擬人化して〈耐えている〉と観るところにも、〈薄い今日〉を持ち堪えている詩人の眼差しが感じられた。私が慰められるのは、耐えるにしても、そこに雫の無心な風情が捉えられていることだ。雨滴は空や雲を映しこんで、微かに震えている。娘もまた透ける記憶体となり、母との楽しかった日々を映しつつ、〈薄い今日〉をできる限り〈しずかな一日〉として過ごしてゆく。
しかし、しずかな日常を紡ぐ詩人は、一方でそこから抜けだし、姿かたちを振り払って出奔したいという夢想の人でもある。「青の必要」や「水の中の深いところ」などの詩篇には、風に乗るように駆け出して、あるいはしゃにむにペダルを漕いで加速し、無数の粒や泡にほどけながら、空や水へとまぎれてゆく拡散や飛翔の感覚が満ち満ちている。まさに〈飛手〉によって書かれた詩だ。さて〈飛手〉とは何だろう……こればかりは説明してしまってはつまらない、ぜひ詩集をお読みいただきたい。
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