(松井茂『時の声』photographers' gallery、2010年)
伊村靖子(京都市立芸術大学大学院、美術批評)
本詩集は、直接的には松井茂による展覧会「ACOUSMATIC」(会場:photographers' gallery、会期:2010年5月25日―6月6日)の作品集としての性格をもつ写真集である。このような歯切れの悪い説明から始めなければならないのは、この詩集の多層的な性質によるだろう。
まず、展覧会の様子から振り返ってみよう。目線の高さに小ぶりのパネルが整然と並ぶ、展示室。近づいて一点ずつに対峙すると、活字が読み取れる。私は、この体験に覚えがあると感じた。オノ・ヨーコの《絵のためのインストラクション》(1962年)を想起したのだ。オノの作品は、言葉によるインストラクションを手がかりに鑑賞者の自発的なイメージを喚起することによって成立する絵画である(もっともオノの場合は手書きの文字だが)。フルクサス初期の「イヴェント楽譜」につながるオノの一連の実験は、伝統的なメディアとしての絵画をインストラクションと実現という二つの機能に分けたという点で、コンセプチュアリズムの先駆けとみなされる。あるいは、詩の側から捉えれば、「行為としての詩」とも言えるだろう。しかし、松井の作品から特定のイメージは浮かばない。画面いっぱいに広がる平仮名は、捉えどころのないオノマトペらしき言葉の羅列である。「ACOUSMATIC」とは、「音源を知らずして音を聴く状況」(ミシェル・シオン)を指すというが、ここでは記されたオノマトペを口ずさむことで、かろうじて意味の断片が喚起され、漫然と言葉が生成されるようにすら思える。いわば、言語の発生があるかないかのすれすれのところに成立する詩なのである。
それでは、「詩」はいかにして成立しうるのか。詩集『時の声』の編集から、松井の問題意識を窺い知ることができる。この詩集は、同展覧会から七編の作品を一点ずつ写真に収めた作品集である。詩集ならば、活字で収録してもよさそうであるが、画像としての文字を読むという奇妙な入れ子構造が仕掛けられている。この点に、本詩集のねらいがあるといえよう。そもそもこの詩作そのものには複数の人が介在しており、前のメディアの内容を後のメディアが包含するという連鎖が意図的につくられてきた。具体音を録音・編集した音源(「具体詩」)、それを聴取して言葉として発音した録音物(「音声詩」)、それをさらに聴取して書き起こした原稿、それをパネル化した展示がそれぞれ別々に発表された後、展示作品を撮影して編集されたのが本詩集である。しかし、ここでのメディアの包摂関係は、いうまでもなくマクルーハン的な「拡張」を意味するものではない。一連のプロセスはむしろ、ひたすら変換を繰り返すプロセスとしてのみあり続け、コミュニケーションを基盤としている点に批評的態度が読み取れるのである。
我々はここで「批評としての詩」のあり方を突きつけられる。松井の詩の形式には、主たるメディアが特定されていない。例えば、先のオノ・ヨーコの「インストラクション」は実現を他者に委ねることによって成立するものや、観念の世界でしかありえない指示、オブジェとの意外な組み合わせなどによって鑑賞者の思考を刺激するが、詩を起点とすることを確保した点に特徴がある。これに対し、松井の作品は、個人の知覚をパラメータとすることにより、避けがたく起こるメディア間の変換のズレのみに解釈可能性が生じる形式である。言語はコミュニケーションの前提として自明なものではなくなっているのだ。その意味で、言葉の発生を根源的に問うシステムの提示こそが、松井の詩であるとも言える。
オノ・ヨーコは、ジョン・レノンとともに有名な《WAR IS OVER!》(1969年)をビルボードとポスターで発表した同年に、マクルーハンのスローガンを逆手にとった《メッセージはメディアである》という文を残している。これは今日まで彼女の芸術の根幹を成す考え方として輝きを持ち続けている。それと同時に、メッセージの機能そのものが常に質的変化に晒されていることを意識せずにいられない。複数の複製メディア、デジタル・メディアに囲まれた状況がすでに環境化している今日、メディアと知覚の関係は相補的に展開している。松井の「批評としての詩」は、詩が成立する場を現代のメディア環境の中に問い直す、希有な試みと言えるだろう。
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